ある。この社会にともに働き、ともに生きる男と女とが、その基本的な人間としての権利において互に等しいものであるというわかりきったことが、現世紀の半ばになって、しかも、こんなに深刻な破局をとおして、やっと成文にかかれたということは、むしろおどろくべきことだと思う。
憲法が改正されたことは、民法の改正をひきおこした。民法の上でこれまで婦人が全く片手おちに、したがって非現実に扱われていた条項を、生活の実際に近く――男女平等のものに改正しようとされている。
先ず婚姻の問題が、「家」の問題でなくて、当事者である男女の問題として扱われるようになった。「家」は、家庭を単位として扱われることになり、そこには夫と妻と子供たちとのひとかたまりが、基本として考えられるようになった。「家」の嫁は、はっきりと夫の妻、子の母、としての立場で認められることになって来た。
離婚において、これまでは妻の側からの離婚の要求は殆んど出来ないのが普通であった。協議離婚として、離婚しようとする対手の夫がその申出を承認し、二人の証人も承認し、妻がわかければ、妻の生家の戸主の署名までなければ、離婚は不可能であった。妻が夫の乱行に耐えず、また冷遇にたえがたくて離婚したくても、夫が承知しなければ、生涯ただ名ばかりの妻で、保姆と家政婦の日々を暮さなければならなかった。夫である男と妻となる女とが、互の愛と社会的責任において、家庭を営んでゆくのが結婚の原則であるとすれば、その愛が失われ、相互の責任が実行されないとき、離婚がおこるということはさけ難い。離婚は、いつでも、結婚の純潔と互の責任を完うするための分離としてしかあり得ない。
「家」を主にして生活が運転されていた時代は、妻は嫁であり、その妻が母となっても、お母さんである嫁であった。離婚しても、嫁、または子をもった嫁が、その家を去られたのであって、のこされた子を育てるには、姑だの小姑だのがあった。妻を去らせた男の生活の家事的な面はそれらの「家」の女たちによって結構まかなわれた。
家庭の単位を、夫と妻とその子供たちとする新しい民法で、結婚が男女二人の意志で行われるという場合、これまでよりもっともっと重大な責任を結婚しようとする当人たちが互に自覚しなければならない。お互同士のほかに、苦情の訴えどころもなければ、責任を転嫁する対手もないのだから。同様に、離婚の自由がある
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