っていることにあるのではない。自身の敗北の十分な意識の上に立って、その社会的・歴史的要因を作品の中でつきつめようとする熱意を欠いていることである。あらゆる進歩的なインテリゲンツィアと勤労者に、その敗因が全くひとごとではない連帯的な現実の中にあるということを、芸術の息吹によって深く感じさせるべき義務を果して得ていないところに、その努力によって敗因を克服する意志をふるい立てぬところにあると思われるのである。
 ヒューマニズムの提唱が総て非人間的な抑圧に抗するものとしての性質をもっているからには、文学に関して云われている社会性のことも、以上のことと全然切りはなしては考えられないのである。
 作家が、作家となる最も端緒的な足どりは周囲の生活と自分のこうと思う生活との間で自覚される摩擦である。階級的にどんな立場をとるに至るにしろ、先ず自己というものの意識、それを確立しようとする欲望から出立することは小林多喜二の日記を見てもわかる興味深い事実である。日本のようなインテリゲンツィアの社会環境と思想史とを持つところでは、或る意味で強固な個性が当時の流行的思想に反撥することが、一種の健全性としてあらわれる場合もある。然し、既に今日の現実の中では、わが個性の確立、発展の欲求を自覚すると同時に、実際問題としてそれを制約している事情との日常的な相剋があり、社会的事情の改善なしに個性の発揚は不可能であるという客観的事実を示している思想は、空な一流派の流行とかその衰退とかの問題であり得ない。
 思想的発展の伝統の中で、日本の作家は真の個人主義時代を通過していない。そのために、封建的な自我の剥脱に抗する心持と、新しい社会的事情に向っての闘争の過程で自己を拡大するため、集団的、階級的な形態で自我が認識されなければならないという事実との間に、面倒な理解の混乱が生じ勝ちであり、後者に反撥して自我を主張することから、逆に、最も保守的なものへころがり込む場合さえあるのである。
 私は、フランスをとおり、ソヴェトをぬけて帰って来た横光利一氏が、今後どんな風に人及び作家として展開してゆくかという点に、或る興味をもっている。横光氏は、作家としての出発当時、先ずその時分支配的であった小説における志賀直哉氏の影響を反撥することから、歩み出したということをきいたことがある。そのようにして歩き出したこの作家は「上海」を
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