ない夜叉のヒューマニズムでも高々とふりかざしているかのように云われる舟橋氏も、主張されるその新胎に立ってしずかに眺められた時、ここに一つの愛し生まんと熱望しつつ歴史の歯車によってその可能を引裂かれている女の、どのような訴えがあり、クレイムがあるかということは、おのずから理解されずにはいないであろうと思う。
 日本における今日のヒューマニズムの問題は、その正当な進展の道に、社会の諸事情によって様々の困難を負うている。その困難の深さ、複雑さの一つが、見やすい形ではヒューマニズムの理解における安易な日常性肯定の傾きにあらわれていると思える。ヒューマニズムの理論的闡明に附随している不便や現実の展開の局限などから生じた停滞が、この傾向を助長させているのであろうし、又限界をひろくして観察すれば、そういう傾向にいつしか導き込む安易さが昨年あたりからヒューマニズム提案がなされた初期からの或る底流の一筋としてつづいて来ていることも見出されるのである。
 ヒューマニズムはいよいよ上昇線を辿る時代が近づいて来たと舟橋氏は云っておられる。ある人々の主観の中での昂《たかぶ》りでなく、人間生活の歴史的動向に沿うて上昇し発展されなければなるまい。子供を愛すことも出来ないで何のヒューマニズムぞやと云いすてるところから、今日人々が再び、子供を愛すとはどういうことなのだろう、ヒューマニズムとはどんないきさつを持つのだろうと、我とひととの現実の感情にあゆみ入って社会的に見直そうとしている意欲に、人間的な前進の念願が見られなければならないのである。
 くわしく触れている余裕がのこされていないが、ヒューマニズムの理解の中にある日常性の容易な肯定の傾向と文学における大衆とその生活の観かたの中にある追随とは、非常に微妙に関連している。このことは徳永直氏の「八年制」と「心中し損ねた女」(十月新潮)と人民文庫にかかれている文章との一つながりの中に深刻な課題として出て来ているのである。[#地付き]〔一九三七年十一月〕



底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
初出:「あらくれ」
   1937(昭和12)年11月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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