ニズムのはじまりは子供を愛すことから発足するようにも云われているのだけれども、今日の私たちの生きている社会の現実を少くとも作家の目で見まわして、単純に子供を愛すこととヒューマニズムとは牴触しないと果して云い切れるものであろうか。
 舟橋氏自身の子供さんに対する心持の内側からだけものを云えば、もとより現在のところ、この二つのものは牴触していないのであろう。愛される子供の側からの愛されかたに対する注文が出ていず、氏として自身の愛情や質や発露に何の疑いも抱かれないでいる限り。然し、芸術の問題、芸術家の生きてゆく態度としてのヒューマニズムが現代の問題として存在するのは、例えば、一口に子供を愛すという、その日常感情を各人の日常の主観の枠の中で肯定してゆくばかりでなく、そこにはやはり拡大せられて来ている現在の社会感情を背景として、子供に対する愛とは何ぞや、今日の子供に対する愛はどのような方向と表現とを持って人間を高めより自由にするために発動しなければならないか、という叡智的な、同時に実践的な探求が新しく出されていると思う。
 子供を愛する、人間は子供を可愛がるのが本性である。そういう抽象的な一般論の上に無撰択に立っているものではない。おー、貴様は俺の大事な一粒だねだぞ。ウィー、男一匹酒ぐらい呑めないでどうする! ホラ飲んで見ろ。これも可愛がりの一種である。子供さんが病気だというと覚えず動顛する氏の愛は、小さい息子を酔っぱらわして見たがって女房と喧嘩する父親のやりかたを子の可愛さ一般で肯定し得ないであろうと推察される。
 文学が、神或は馬琴流の善玉悪玉の通念に対して、一般人間性を主張した時代は、日本でも逍遙の「小説神髄」以来のことである。私たちのきょうの生活感情はそこから相当に遠く歩み出して来ている。「主従は三世」と云って、夫婦は二世、親子は一世と当時の社会を支配したものの便宜のために組立てられていた親子の愛の限界は、既に、どんな人間でも子の可愛くないものはないという一般常識にまで柵を破られて来ているのである。
 更に文学は、この一般人間的感情の上に立ちつつ、現実の人生の姿として、或る親はそのわが子可愛ゆさの心持をあらゆる明暮の心づかいに表現して、親も子ともども互の愛に満喫し得ているのに、一方ではどうして親心としては同じ思いの或る親が、我が子を幼年労働に追い立てなければならないの
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