ぐらして、高いところから自分を見守っている桃子の顔をなんなく見つけ、爽かな笑顔でもって頷いた。親愛のこころそのままの様子でそれに応えている桃子から順助へと、隣席の青年が青春の敏感さで目をうつした。順助のとりつくろわない全体に何かただようものがあって、それは男の目をひくものをもっているのであった。
みてみると、順助は通路に佇んでいる桃子とおない年ぐらいの女のひとのそばへよって行って、少しこごみかかる姿勢で何かいった。そのひとは素直にふりかえって、順助に教えられながらだんだん辿って桃子の顔へ視線をとめると、おとなしい会釈をその場所から送ってよこした。少し遑《あわ》てた桃子は丁寧に女学生っぽいお辞儀をかえした。支那風の翡翠色の繻子に可愛い刺繍をした帯のうしろを見せてそのひとが先に立ち、いつもの順助の席よりはずっと先の棧敷の方へ静かにおりてゆく。そこへ開演をしらせるベルが鳴りわたった。
井上園子の演奏するコンチェルトを桃子は今夜特別深く心にうけとって聴き入った。久しぶりでこのひとの演奏をきくというばかりでなく、ステージへ出て来てお辞儀をする、そのお辞儀のしぶりからして今晩の井上園子にはよけいなもののない本気さがこもっていた。真直《まっすぐ》音楽にうち向いて、音楽に自分の生活のあらゆるものを与えそこに生きようとまた新しく思いきわめたというような気魄が、力づよく丸みある一うちのコードのなかにも響いているようである。新鮮なおどろきに似たこの感動は曲が進むにつれてますます桃子の心を捉えた。ぐるりの聴衆も、際立ったこのピアニストの内面的な進境で奏される音楽に魅せられた風で、息をつめた満堂の静謐のなかに最後の旋律が消えると、情緒的な拍手の嵐がおこった。アンコールのあとも拍手はしずまらなくて、もう一度出て来たそのお辞儀もやっぱり、さっぱりと真率なものでされている。桃子は熱心に手をたたきながら、もし出来ることなら、この芸術家の手を心から女同士の思いでとって、本当によかったわねえ、とよろこびと激励のひとことを囁きたかった。桃子はこのひとが外国から帰って来たばかりのまだ白いソアレを着ている細そりとした令嬢だった時分から、ひそかな支持者の一人であった。やがて関西の富裕な実業家との華々しい婚礼があり、それから後の数度の演奏は、女性として肉体的にも豊饒な刻々の成熟が反映しているようでありながら、
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