指導上の誤りがあったし、作家がものを書くために不便な条件もあったことは事実である。けれども私は今日自分がプロレタリヤ作家として落ちついた一つの確信をもってものを書けるような時機に到達している立場から、これまでの数年間を省ると、あながちそれらの人達の考えるような消極的な意味だけが過去の活動から汲取られるとは思わない。また現実的に作家の本質的な発展の問題に触れてこれを見れば、決して消極的な意味を歴史上に持っていたのでもなかったのである。
大体、作家とその実際生活との関係は非常に微妙で、興味尽ぬものがあると思う。例えば私なら私という一人の婦人作家が、最近の三四年間における日本の複雑きわまる急速な状勢の移り変りにつれて実際生活の上で経験した事柄というものは、その内容をみると時間では計ることの出来ない程多く深いものを与えている。
それならば、どうして刻々にその経験を片端から小説に纏めて行かなかったのかという疑問が起るのであるが、私はここにリアリズムというものが経験主義でもなし、日常|瑣末《さまつ》な写実主義でもないという証明があると思う。
ある作家が、ただ実際はこうであったという自分なり人なりの経験にだけ頼って、その範囲内で一つの事件をみて小説を書いた場合、読者は必ずしもその作品から実際事件が当事者達に与えたような感銘を受取り得るとは限らない。屡々反対の結果が起っている。例えば、組合の活動をした人は過去の運動に於ける文化問題の理解の不足ということもあるが、よくプロレタリヤ作家の小説は真面目ではあるけれどつまらない、私達の生活の方がもっと面白い、私達はもっと面白いことを知ってもいる、というようなことがある。
ブルジョア作家のある種の老大家や所謂有名な文筆家の中にも、年をとるにつれて小説がつまらなくなって来た、読めるような小説はこの頃一つもないではないか、子供欺しだ、といって、それに較べると、とシェクスピアやユーゴーの偉大さを賞める人もよくある。今の小説はつまらないということが一つの識見であるかのように繰返されることがある。作家はそういう人々の弾力を失った感受性を憐むと同時に、作家側として学びとるべき何ものかがその一見下らぬ言葉の中に籠っていることを知らなければならないのではないだろうか。
小説は、ただあった通りに書いたというだけではいわばそこには題材はあるが肝心の読者
前へ
次へ
全6ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング