薄暗い廊下をお清さんがやって来た。白地の浴衣に襷《たすき》がけの甲斐甲斐しさだ。彼女は由子の傍へ来ると、
「ちょっと、こんなもの」
と云って膝をつきながら、笑って両手の間に小さい紫のメリンスの布《きれ》をひろげて見せた。
「何なの」
「あなたのでしょう」
「あら? 前かけね」
「長持ちのお布団の間から出たんですよ」
 由子は漠然と懐しささえ感じて、そのメリンスの小っぽけな前掛に触って見た。前掛と云っても、袷の膝をよごさない為ほんの膝被いのつもり故、紫の布は僅か一尺余りの丈しかなかった。もう虫が喰っていた。ぽつぽつ小さい穴や大きな穴の出来たその古前掛は、並はずれて丈がつまっているだけどこやらあどけない愛嬌さえある。
「あら感心にまだこの紐がちゃんとしている」由子は一種の愛惜を面に表して、藤紫の組紐をしごいたりしたが、やがて丁寧にそれを畳んで、お清さんの前へ置いた。
「あなた大働きだから、勲章にこれさし上げます」
「おやまあ」
 お清さんは、笑いながらそれを戴いた。
「恐れ入ります。じゃ、いただいといて家宝にでも致しましょう」
 真面目腐って立ち上ったが、座敷を出ながら、
「でも本当に可愛いんですね、しまっときますよ」
 ただ虫が喰っただけだとは思ったが、由子はそのまま黙っていた。
 その紫の小さい前掛に特別な連想や思い出がある訳ではなかった。ただ、平常《ふだん》前掛をしない由子が、何年か前、気まぐれに拵えた紫前掛、その色の古風なところも、そのまま偶然虫に喰われながら出て来て見ると憎らしい心持もしない。ホホウ! そして何だか微笑まれる。紫の布《きれ》ッ端《ぱし》とばかり感じられない親密さがあるのであった。
 宏やかな自然の風景を写している由子の意識の上に暫く紫の前掛が鄙《ひな》びた形でひらひらした。段々その幻影がぼやけ、紐だけはっきり由子の心に遺った。紐は帯留めのお下りであった。あの帯留は母が買って来た。「まあこんな廉《やす》いものがあるんだね」そう云って由子の前へ出して見せた。「するのならあげよう」由子が平常にしめているうちに、真中に嵌《はま》っていた練物の珠みたいなものが落っこちてしまった。珠みたいなものは薄紅色をしていた。……
 由子は、今も鮮やかにぽっくり珠の落ちた後の台の形を目に泛べることが出来た。楕円形の珠なりにぎざぎざした台の手が出ているのが、急に支える何
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