が悪かったら、どうぞ私を叱って下さいまし、そして飛田さんを勘弁してあげて下さいませ」
 先生の顔を見た瞬間、体中の血が一どきにドクーンと音を立てて心臓に突かかって来、自分で自分の声がよく聞えないほどの興奮を感じた彼女は、飛び付くように先生の直ぐ前へ立ちながら、あらいざらいの勇気と力をこめて云った。
 先生は暫く、真赤になって激情から我知らず震えている彼女を見守っていたが、やがて彼女には思いがけなかった微笑を浮べながら優しい声で、
「伊那田さん貴女何か叱られるような事をしたんですか」
と云った。
 何と返事をしたらいいのか分らなかった彼女が、青い頬骨の突出た顔に漲《みなぎ》っている、何だか訳の分らないほど複雑な表情のうちから、言葉を見出そうとしているうちに、先生はすぐ後をつづけて、
「飛田さんには学校のことでお話していたんです。ちっとも叱られてなんかいたんじゃあ、ありません。ねえ、飛田さん」
と、飛田さんを見た。
「ね、そうですね飛田さん」
 飛田さんは、唇の上に涎《よだれ》を一粒光らせながら、肯定も否定も表わさない微笑を漂わせて、何が起っても私は知りませんと云うように立っている。
「だから心配しないでもいいのですよ、大丈夫だから。決して叱っていたんじゃあないんだから……けれども、一体誰が貴女にそんな事を教えたんです。
 おっしゃいな」
「…………」
「とにかくね、貴女が悪いことをすれば、きっと私は貴女を叱ります。そしてまた、若し飛田さんが悪いことをすれば、私はどうしても飛田さんを叱らなければなりません。貴女と飛田さんとは、まるで別々に一人ずつの人じゃあありませんか」
 先生が、落付いた自信のある口調で明言したのを聞くと、彼女は思わずハッとした。
 こう言明するからには、心からこう思っているに違いない先生に対して、失礼なことを考えていた相すまなさと、軽弾みだった自分の恥かしさとが、一時に強い感動となって心を撃ったのである。
 今朝の先生と、現在の先生との間に、彼女はどうしようと思うほどの差異を認めた。
 どっちが真個の、「この」先生なのか。
 けれども、誰でもがそうである通り、彼女も、自分が教えを受けている先生は、下等で卑劣だと思うよりは、真個に尊ぶべき人格を持っている人として確信される方が、どのくらい嬉しくて、心が安らかだか分らなかった。
 学問はたといそんなに偉く
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