た反ナチ派の勢力の下にあったバイエルン州のミュンヘンでは、この報知をきいても、ナチの悪計とは知らず、エリカ・マンの胡椒小屋は謝肉祭の大陽気で、反ナチの寸劇などに興じていた。
あくる朝、すべての興奮は恐怖にかわって、全ドイツの人々が国会放火の真実の意味を知った。ナチスは、その火事を機会として、ドイツ中の共産党員、社会主義者、民主論者、平和論者、自由主義者、ユダヤ人の大量検挙をはじめたのであった。ヒトラーの手先がミュンヘンにも入ってきて、公共建物のすべての屋根に気味わるい卍《マンジ》の旗がひるがえることになった。
トーマス・マン夫妻は、おりからスイスに講演旅行に出かけていてエリカとクラウスとは、もう一刻も安住すべきところでなくなったドイツを去る決心をなし、スイスの両親にそちらにとどまるようにと電報して、ただちにスイスのアローザへおもむいた。こうして、ドイツの知識人の代表的なトーマス・マン一家の亡命生活がはじまったのであった。
当時トーマス・マンは、「ヨゼフとその兄弟」という作品の執筆中で、原稿があわただしくみすてられたミュンヘンの家にとりのこされたままであった。トーマス・マンのために
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