『ザンムルング』という反ナチの文学雑誌を発行していた。ロシアの作曲家チャイコフスキーを題材とした「悲愴交響曲《パセティックシムフォニー》」という作品がある。二男は歴史家であるゴロ・マン。次女モニカはハンガリーの美術史家の妻。三男ミハエルはヴァイオリニスト。末娘のエリザベート・マンがピアニストで、イタリーの反ファシスト評論家ボルゲーゼと結婚しているそうである。
内山氏の紹介によると、エリカ・マンは一九〇五年生れで、日本流にかぞえれば四十四歳になっている。幼年時代を、たのしく愛と芸術的な空気にみちたトーマス・マンの家庭に育って、十八歳で学校を卒業すると、ベルリンへ出て、マックス・ラインハルトの弟子になった。ラインハルトといえばドイツの近代劇と演出の泰斗である。(ナチスきっての芝居気の多かった男ゲーリングも、ひところ門下に加っていた。ナチスの大がかりな舞台効果は、はからずもゲーリングのこの経歴が役立ったといわれている。)
ラインハルトの下で女優となったエリカ・マンは、やがてハンブルグでおなじ俳優であるグリュントゲンスと結婚した。グリュントゲンスは才能はあったが、あとではナチスに加って、ベルリン国立劇場支配人と立身したような性格であったため、エリカの結婚生活はながくつづかず、離婚して故郷のミュンヘンにかえった。そして、国立劇場や小劇場に出演した。ショウの「セント・ジョン」でジャンヌ・ダークを演じたりして好評をえている。
エリカ・マンには、女性にめずらしい特長があり、疲れを知らない行動力、強靭な運動神経がある。ヘンリー・フォードが催したヨーロッパ早まわり競争に参加して、十日間に六千マイルを突破して一等になり、フォードより自動車を一台おくられたことがある。この早まわり競争の道づれも弟のクラウスであり、しかも早まわり記事を新聞におくり、あとから一冊にまとめて「欧洲一周」として本にした。
一九三〇年に入ってから、ヒトラーのナチスは総選挙で多数党となり、ドイツの全人民が知識階級をもこめて、その野蛮な軛《くびき》の下に苦しむ第一歩がふみ出された。どうして、第一次ヨーロッパ大戦後のドイツに、ヒトラーの運命が、そんな人気を博したのであったろうか。内山氏の紹介は、「まったく敗戦後のドイツの姿は、今日の日本を彷彿させるものがある」と当時の事情にふれている。大戦後の混乱は有名なマークの暴
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