、或るとき曾祖母が、一服終った政恒に向って、お前は本当に開墾事業をなしとげる覚悟か、と訊ねた。政恒にとってこれは心外な問いであったろう。もとよりと答えると、曾祖母は私にはそうは見えぬ、と云ったそうだ。一日に何度も薄茶なんか立てさせて飲む性根で、土方の仕事のしめくくりがつくと思うかと云った。政恒は、その日から薄茶を断って生涯を終った。政恒は六十歳で没した。六十歳の息子のなきがらの前にややしばらく坐っていた八十一歳の曾祖母は、おうん、と嫁である私の祖母をよんで、政恒も可哀そうに、薄茶を一服供えてやれっちゃ、と米沢の言葉で命じた。祖母は思わず一生に一遍の口答えを姑に向って、その位なら、せめて、息のあるうち上げたかった、と云ったそうだ。
政恒という人は所謂乾分はつくらなかった。然し有望な青年たちの教育ということには深い関心をもって一種の塾のようなものを持っていたことあり、そこに長男であった父精一郎はじめ、何人かの青年が暮した。伊東忠太博士、池田成彬、後藤新平、平田東助等の青年時代、明治の暁けぼのの思い出の一節はその塾にもつながっていたらしい話である。
父は死に到る迄死ぬことを考えない活気で
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