あった。陽子は、自分の生活の苦しさなどについて一言もふき子に話す気になれなかった。
四
妹の百代、下の悌、忠一、又従兄の篤介、陽子まで加ったのでふき子の居間は満員であった。円卓子《まるテーブル》を中心にして、奥の箪笥の前にふき子が例の緑色椅子にいる。忠一が持って来たクラシックを熱心に繰っていた。となりに、百代が萌黄立枠の和服で深く椅子の中に靠《もた》れ込み、忠一と低い声であきず何か話していた。忠一は、百代の背中に手をまわすようにして、同じ椅子の肱に横がけしているのだ。その真正面に、もう一冊の活動写真雑誌をひろげて篤介が制服でいた。午後二時の海辺の部屋の明るさ――外国雑誌の大きいページを翻《ひるがえ》す音と、弾機《ぜんまい》のジジジジほぐれる音が折々するだけであった。
陽子の足許の畳の上へ胡坐《あぐら》を掻いて、小学五年生の悌が目醒し時計の壊れを先刻《さっき》から弄《いじく》っていた。もう外側などとっくに無くなり、弾機と歯車だけ字面の裏にくっついている、それを動かそうとしているのだ。陽子は少年らしい色白な頸窩《ぼんのくぼ》や、根気よい指先を見下しながら、内心の思いに捕われていた。その朝彼女の実家から手紙を貰った。純夫が陽子の離籍を承諾しない事、一人の女が彼の周囲にあるらしいことなど告げられたのであった。純夫に恋着を失った陽子にそんなことはどうでもよかった。然し、事実は愛情もない、別々に生活している男女が法律の上でだけは夫婦で、しかもその法律が物をいい出せば、夫である田村純夫がいろいろ支配力を自分の上に持っているという考えは何と奇怪であろう。陽子は益々自分の中途半端な立場を感じ、謂わば、枝に引かかった凧のように憂鬱なのであった。
――静けさ明るさに溶けるように、
「う? う?」
軟かく鼻にかかった百代の声がした。十六の彼女は従兄の忠一の後に大きな元禄紬の片腕を廻し背中に頻りに何か書いた。
「ね? だから」
何々と書くのだろう。忠一はしかつめらしく結んだ口を押しひろげるようにして、うむ、うむ、合点している。篤介がひょいと活動雑誌から頭を擡《もた》げ何心なく真向いでそうやっている二人を眺めた。彼等は篤介の存在など目にも入れないらしかった。段々照れて若者らしくペロリ、舌を出し彼は元の雑誌にかじりついてしまった。――片頬笑みが陽子の口辺に漂った。途
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