と骨とを貫いて絶えず満ちて居る髄溶液を自覚して居るものが何処に在るだろうか。自然は生育の過程の何時の間にか、堅い折れ易い骨の裡に、流動する液体を与えた。
 誰が与えられた時を知り、その動揺を知覚し得よう。けれども在る事は事実である。無くては居られない。持たずには居られない。その、神秘的な液体と倶に、人を産んだ「祖国の気分」も生きて居るのではないだろうか、私は、今更に背後の重さを感じずには居られない。我が父母。我が祖父母……誰々……誰々……。私は、私共一家族の短かいとは云え、昨日今日では無い遺伝を背負って居る。
 今日、私自身が自らの裡に自覚する強みも、弱みも、何処か遠い、見えない彼方に下された胚種の、一つの発芽であると、何うして云えないだろう。
 此の一家族を貫く何等かの遺伝の上に、私は此も亦必然的な「日本」と云う祖国の気分を負って居る。
「今」と云う瞬時。その「今」は、恒久な意識の流れを截断した瞬間的断面だと云えるならば、「私」も亦、伝説が、日本の神人を語るより以前からの「日本人」の一断面ではないだろうか。私は今、紐育《ニューヨーク》の町中に居る。私の足の下には靴の皮がある。キルクの床がある。石とコンクリートの下には、アメリカの土がある。けれども、けれども、私には、小さい島国の、黒い柔かい、水気豊かな春の土が、足の素肌に感じられる。抜けようとしても、抜けられない泥濘の苦しさと混乱を、此の両足に感じる。何処へ行っても、祖国が足の下にあるだろう、地球の果にまで走ろうとしても、祖国の地面は、尚も、尚も、私の足跡を印させるだろう、私は此を歓ぶ。けれども、怖ろしい。涙が出るほど恐ろしい。おお! 我が祖国よ!
 祖国を縦に丈斯うやって考えて来る時、私は完く何とも云えない心持になる。何故なら、我友よ。此の心持は、人類が、存在の始めから思わずに居られなかった理想に、大きな悲劇を与え与えして来た Racial Feeling の根底が如何に深く、又如何に逃れ難いものであるかと云う事を、私自身の裡に明かに証明された事になるからなのである。
 戦争と云うものが事実今日に於て在るのだから、無く仕ようとするのは夢想に過ぎないと云って、平和論者を嘲笑う人は、私の此等の言葉を聞いて、其見ろ、お前だって矢張り、自分が如何那《どんな》に日本人だか今始めて解っただろう、どうだ! と云うかも知れない。
 人間がそう云う心持を持って居るとしたら、その心持が戦争を起し、涙一つこぼさずに殺し合うのも亦当然では無いかと若しも云う人があったら、私は、敢然として否定しなければならない。
 そう、人間は確かに祖国の土から、彼等の足を離す事は出来ない。人間である総ての者は彼等の祖国の土を思わずには居られない。
 私は、日本人許りだと云うのではない。英吉利人だけだとは云わない。人間である。万人が万人の人間である。此の地殻の上に何処からか生れ出たものは、その出生の地を、彼等の魂のどん底から剥ぎ取る事は出来ないのである。
 静かな夜の中に坐して、記憶の裡に蘇返る「祖国」に、慄えるような愛着と、叫び度くなる程の嫌厭と恐怖とを感じる時、私は此の感動が、果も無い空間から空間へと、反響するのを感じる。
 私共は「日本人」だから「日本」を思うのでは無い。「米国人」だから、「米国」の土に涙を垂れるのでは無い。人間だからである。人だからである。名は約束である。日本と云うのも、支那と云うのも、又は英吉利と云うのも、丁度、数字が、太古からの約束である如く、只一つの約束に過ぎないのではあるまいか、
 彼等が、そして私共が、地上に於て最初の呼吸をした其一点――地理的に、歴史的に或る伝統を持った、地上の其の一点が、総て生れ出た者にとって、忘れ得ぬ「祖国」と成るのである。
 私が今斯うやって、双眼に涙を泛べながら、思いに沈んで居る時、遠い海を越え、野山を踰《こ》えた彼方の彼方の何処かにも、矢張り、私と同じ恐れと愛に慄えながら、彼等の「祖国」を思う人は無いだろうか。
 我が友よ。我が愛する友よ。厳粛に心を鎮めて思う時、我――人間ほど「いとしい」ものが在るだろうか、又人間ほど「いとわしい」ものが又と在るだろうか。
 私は、丁度、濡れそぼたれた獣同志が、互に身を寄せて暖め合うような、生身《なまみ》の愛と憎と惨めさを感じずには居られないのである。
 考えて御覧なさい。
 私共は、何時から人間の生活の、大らかな純一性を求めて来ただろう、そして又、此から先、何時までその燃えるような探求と努力とを続けて行かなければならないだろう。
 太古の猶太《ユダヤ》人は、何の為に、如何《ど》う云う心の苦しみから、彼程熱く神を叫んだのか。
 ギリシア人は。ローマ人は。そして、今漸々戦慄すべき大殺戮の武具を納めた数多の国々は――。
 私共
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