であった、彼の誰だか分らない「私」の胸を満たしたと同じに、今、芥川氏の心を揺り、私の魂にまで、そのじわじわと無限に打ち寄せる波動を及ぼしたのである。そして、今、図書館の大きな机の上で我を忘れようとして居る私は、その気分の薫り高さに息もつきかねる心持で居る。
 その薫り、その故国の気分――。海を遙かに隔てて、他国の土の上に居る私は、遠く何時かの前に別れを告げた筈の故国に、今図らずもめぐり会った。今、私は故国の上に棲んで居るのではない。故国が、いとしい「我が土が」、私の此の、心の中に此の魂の中に生きて居るのを見出したのである。
 私はどんなに深くいとしく、故国を思い遣る事だろう、どんなに懐かしく「私達の言葉」に聴き惚れる事だろう。
 我土よ! 我が声よ!
 私の家と云うのでもない。私の知人と云うのでもない。私の生れた土の持つ限りない「気分」が、我が故国よ! と云う一つの憧れになるのである。
 生れて口が利けるように成って此方、私は随分沢山種々な事を喋った。善い事も、悪い事も――。けれども、嘗て今日程、自分が絶えず喋って居る「自分達の言葉」に感動したことがあるだろうか、此程、国語と云うものが、如何程強い根を持った「国語」であることを感じた事が、只の一度でもあるだろうか。
 勿論私は如何程感心したからと云って、自分達の国語が、人類の持ち得る最上のもの――完全無欠で、最も理想的なものだとは思って居ない。
 日本語は、確かに科学的表現の確実さ正確さは欠いて居る。
 自由な新鮮な感情の燃焼を現わすに、日本語は或時に於ては余り形式的である。女性と男性との言葉遣いの差が、余りつけられすぎて居る窮屈さを感じるのは、物を書こうとする女性の総てが時に感じさせられる事であろう、其他数えれば多くの欠点がある。改良されなければならない処は幾多ある。
 けれども。――我友よ、私の真心は、欠点の多いのも、改良されなければならないのも知りながら、尚、けれども、と叫ばずには居られない。
 けれども――そう確かにけれども[#「けれども」に傍点]、私共の言葉の裡には、私共でなければ感得し得ない何物かがあることも事実ではないだろうか、
 そして、又、具体的の説明が出来ない程深く深く底の底まで沈潜して居るその「気分」は、何と云う強靭さで私の背骨を繋ぎ合わせて居る事だろう。
 皮の下に、肉の下に、繋ぎ合わされた骨
前へ 次へ
全6ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング