を思うと、血が凍る。
其は斯ういう事なのだ。
私が仮令《たと》えば、愛する良人を持って、その愛に対する本能的な純粋さを持ち、希望し、勿論そのために総ての誘惑は可抗的なものであっても、若し泥棒や何かに強姦されでもした場合、単に生理的にでも、同じような亢奮を感じるものと仮定すると、如何に其を自然だとは云え、淋しい気がする、というのである。
○夜が更けた中に起きて居ると、不思議に静的な万物が、彼女の心を嚇かす。
昼間は、多勢の人々の動作につれて、いつもみだされて居た家具調度の輪廓が、妙にくっきりとうき上って、しんと澱んだ深夜の空気の中に、かっきりとはめ込んだようにさえ見える。が、その静粛な明確さは決して魂のないものではない。
人々が寝室に退くその一瞬間前の、ややとり散した位置のまま思い思いに彼方此方を向いて居る椅子や、少し隅々のまくれたカーテンや歪められたクッションなどは、却って、日のある時には思いもよらなかった暗示的な感銘を与える。
若しその気分をもう少し強調して云えば、彼等が、昼間は擾乱させられて居た各自の魂を、此の人気ない深夜の間にとり戻して、その魂の持つ感情を、各自の気で表示して居るようだとさえも云えるだろう。
斯う云う真夜中に只一人起きて居ると、余り、自分の総てが明かに意識されるために、一寸、一足その妙に静まった部屋の中で歩いても、直ちに、その部屋にある丈のものが、同じだけの距離を、動く自分につれてゾロリとずって来そうな気さえする。
大きな机に向って、燃え落ちた黒いストーブを眺めながら、彼女は殆ど夜に圧しすくめられるように成って、彼の事を思うのである。
○段々夜あけが近づいて来るにつれて、今まで灰色だった鈍重な窓がらすはいつか透明なコバルト色になり、その堅い、半透明なコバルト色の硝子の上にうつる、黄色の微かな灯のかげが彼女には、何とも云えない新鮮な、晴々とした気分を与える。
何処かで、舌をふるわせて居るような汽笛の音がした。
底本:「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社
1981(昭和56)年5月30日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第2版第1刷発行
初出:同上
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2004年2月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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