そうです事。私が若し女だったら、ネ、キットそうするでしょう。あこがれのあるやさしい心を持ったまま自分のすきな海か沼に入って死んでしまいましょう、その前にその男に会ってキッスしてもらってから。私ならキットそうするでしょう」と自分の身の上のように云いました。
女「それではネ、若しあなたをそれほどまでに思って居る人がすぐそばに居たら?」
詩「わかりませんワ。ほんとうに居るか居ないか知れないんですもの。あったと云って私はわからないんですもの」と、前ににげないそっけない事を云いました。女は情ない、たよりなげな顔をして両手を胸に交叉して云いました。
女「そんな御心、ソウ」と云ったきり何も云いませんでした。けれ共いつものようにうたをうたって胸によったまま詩をうたってかえりました。詩人は別に気にもとめませんけれ共女の顔には此の上もない愁の色がみなぎっています。片手を少年のうでによせてうつむき勝にかえっていつもの時間に「さようならよい夢を」と云って別れました。
詩人はすぐ床に入るが早いか夢に入りましたけれ共女は中々ねられませんでした。桃色のランプの影で細い頭をかかえてたえ入るような声で云いました。
女「アアやっぱり思った通りだった。どうしよう。けれ共しかたがないでしょう。まだ年がネ。アアさっきの言葉、美くしい思いを抱いたまま死ぬでしょうって。アそうだ、私はこんな胸を抱いて居るにはあんまり若すぎる。彼の人が行ってしまったらキット私はどうしても彼の人の心に入らなければアア」と云って白いクッションに頭を埋めたまま淋しい深い森の中にまよっている夢に入りました。翌日も翌日も女は年の若い詩人の耳に謎のような事をささやいていました。十日たってからの朝小い旅人は女に云いました。
詩「お姉様私の頭には詩が一っぱいになりました。だから家にかえってほんとうに書きたいんですけれど」すまないようなかおをしながら。
女「もうおかえんなさるの。ではお帰りなさいませ。そして一生懸命にお書きなさい。私はそばに始終居て守っていましょう。けれ共どうぞ森の中に一人で住んで居る鹿にそだてられた女の事をわすれずにちょうだい。どうぞね、きっと。そのしるしに」と云ってまっかなルビーを一つ美くしい人の手の上にのせました。そしてそのまんま手を握りながら、しめやかなしぼるようなそれでも美くしい声で云いました。
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