。母の親友であるマルシャル国手をジュネヴィエヴは自分を母にしてくれる人として選ぶのである。マルシャルはその申出を拒む。何故ならマルシャルは妻を愛しているから、と。後に、ジュネヴィエヴは母にそのことを話し、はじめて、母がマルシャルに或る期間心をひかれていたことがあったと知った。マルシャルが彼女を拒んだ心持の微妙なニュアンスを、ジュネヴィエヴは理解することが出来たのである。
アンネットとジュネヴィエヴとの間には、共通なものと全く別のものとがある。旧来の結婚の形式が偽善と心ならぬ犠牲、真実の愛の感情さえ殺すような重しを女にかけることに抗議する心持の上で、この二人は全く同腹の姉妹である。けれども年上であり、成熟した女性であるアンネットの肉体と精神との中には、既に感覚として、自覚される欲望として異性を愛し、抱擁しようとする熱情があるのであるが、若いジュネヴィエヴはこの点ですっかり違う。「私の肉体は少しも私の精神の脱線を諾《うけが》わなかったのです」そして、彼女はそういう自分の肉体の行儀よさに立腹したりした。現実の感覚を知らぬジュネヴィエヴは、非常に率直に、具体的な言葉で問題を出すが、情熱がさめているアンネットの方は、すべてをもっと抽象的に話す。これも、作者の洞察の二様の鋭さであって深い興味を呼びおこす点である。
近頃日本でも一部の若い女のひとが結婚はせず母にはなりたいという、その言葉の中に、どれだけの現実性があるのだろうか。又どれだけの部分が文学的な表現であり、更に下っては誠意のない一つの嬌態なのであろうか。
女がその生涯の終りに、自分が女であることの歓喜に包まれて死ねるように生きたいと希う心は激しくつよいのであるが、女としてのよろこび、悲しみの自覚のむこう側にはいつも分担者としての男がなければならず、更に大きい背景として当代の男女を活かし殺す時代というものの歴史性の強い作用がある。現代が、女としてのぞましい結婚のむずかしい時代であること、のぞましい結合に障害と破壊との加えられ易い時代であることは明らかなことである。けれども、子供はもってよいというひとが、どうして、その前の、男女の結合の形態を、社会常識の上でもっと広やかで自然な、人間的な、相互交流の形に高めようとする情熱を感じないのであろう。その情熱ぬきに、子供の側から見れば、それが多くの場合歴史的な桎梏となっている今日の親子関係の旧套を、そのまま肯定しようとするのであれば、その間には腑に落ちかねる飛躍があると思う。貞操の観念に対して女は久しく受動的であり、無智であったことから悲劇をくりかえしているのであるが、母性の神秘化、抽象化にもおそろしいものがかくされている。「未完の告白」を作者はジュネヴィエヴの人間性のどのような発展において大きい社会的意義のある彼女の抗議を完結させるのであろうか。[#地付き]〔一九三七年一月〕
底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
1952(昭和27)年8月発行
初出:「婦人公論」
1937(昭和12)年1月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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