うな思いのすることだったろう。
 省吾という人がそんなにしてアメリカなんかへ行ってひどいこりかたまりになってしまったわけや、日本へかえって来て、そこで亡くなった気持には、深い複雑な、そして痛切なものがひそんでいたらしく思われる。若い良人でもある兄も、若く美しい新妻であった母も、不言の裡に、この熱烈な気質の弟の決心の動機を理解していたと思える。それが奇矯ではあるが純潔なろうとする意志によっていることや、アメリカほど遠い海を踰えてしまわなければ、そしてやがてはその大きく強い情熱が理が非でも擒にしてしまう神だの地獄だのをつかまえておかなくてはならなかった内心の苦悩を、父と母とは同情をもって推察していたと思う。
 この叔父が、『女学雑誌』を読まなかったと、どうして云えるだろう。
 同じ古本のつみ重りの下から、池辺義象の『仏国風俗問答』明治三十四年版と、明治二十五年発行の森鴎外『美奈和集』、同じ人の三十五年二月発行『審美極致論』が埃にまびれて現れた。「当世書生気質」を収録した『太陽』増刊号の赤いクロースの厚い菊判も、綴目がきれて混っている。
 こんな本はどれもみんな父や母の若かった時分の蔵書の一部なのだが、両親は、生涯本棚らしい本棚というものを持たなかった。その代り、どこの隅にもちょいちょい本を置くところがあって、どこにでも坐ったところには、手にとってみる本があるという暮しぶりだった。
 私の小さかった時には、父のテーブルの置いてある長四畳の片側が二間ぶっとおしで上下にわかれた棚になっていた。その上の段が即ち本棚で、文芸倶楽部、新小説、太陽などが、何年分もどっさり雑然とカーテンもなくつみ重ねられていた。
 五つばかりの娘は手当りばったりにそれを下して来て、字は読めないから絵ばかりを一心にくって眺めた。
『新小説』か何かの扉に、一つどう見てもそこに立っているのが何だか分らない妙な絵があった。そこはひろい池で、赤い夕陽がさしている。向うの黒い森も池の水の面も、そこに浮んでいる一つのボートも、気味わるく赤い斜光に照らされて凝っとしている中に、何かが立っている。青白いような顔半分がこっちに見えるのだけれど、そのほかのところは朦朧として、胸のところにかーっと燃え立つような色のもり上ったものがたぐまっている。五つの娘の瞳にそれはいくらかゴリラの立ち上ったみたいに映るのであった。その絵ばかりはどう見ても会得しかねた。一度ならずくり返えして見て、わからずしまいであった。今なおまざまざとのこっているその印象を目の前にくりのべてみると、それはまさしく日本のロマンティック時代の絵画の一葉であったことがわかる。燃える夕陽と迫る夕闇の池の上で、若い男の顔の半ばが、その胸によりすがっている若い女性の黒髪のかげにかくされていたというわけであったのだろうと思う。感傷と未熟さの朦朧体にくるまれて、その絵はおませな女の子の眼に、どうしてもわけの分らないゴリラに似た塊りとして映ったのは愛嬌がふかい。
 女学校に通うようになってから、私はいつとなし玄関わきの七畳の部屋を自分の部屋にするようになった。省吾叔父がそこに暮していた座敷である。
 いろんな目立たない隅々から古い本棚だの古い本だのをもって来て、下見窓のわきに並べた。その最初の蒐集の中に、今再び埃の下から現れた赤いクロースの『太陽』だの『美奈和集』だの、もうどこかへ行って跡かたもない黒背皮の『白縫物語』だの『西鶴全集』の端本だのがあった。ポーの小説集二冊を母が何かの拍子で買って来てくれたことから、次第に私の本棚にはワイルドだの、小川未明だの、ダヌンツィオだのが加って行った。ワイルド警句集という小型の本も今度出て来た。あけてみると、ところどころに赤鉛筆でマルがつけてある。
 それからひとりでに武者小路実篤の初期の書いたものだのロシアの作家の作品だのが殖えて来たのを思えば、知らず知らずのうちに明治末期から大正への文芸潮流が、七畳の隅の、粗末な本棚と、まだ半ば眠った女の子の心とを貫いて移ったことが考えられる。
 今度の本片づけには、全く歴史のきつい波翳がさしていて、私は空襲の場合を屡々思いやった。
 震災の時は、災難をのがれた。これらの本たちは、そこにまつわる生活の思い出とともに、これから先は何年、平安にその頁を黄ばませて行けるのだろうか。私には、コンクリートの書庫をつくるという手段もない。どっさりの愛すべく尊敬すべき本たちは、年が新しくなるにつれて豊かな生活の脈搏をつたえつつあるのだが、それらの本を、私はせめていくらか火事に遠そうな場所へ置くというだけのことしか出来ない。でも、一抹の楽天的な響が心のどこかにあって、一つの美しく高い歌のメロディーが甦って来る。ドン・キホーテが、彼の大切な騎士物語の本たちを焼かれたとき、ドン・キ
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