菓子屋の娘として、『文学界』をよみ、やがて『明星』にひかれて、『みだれ髪』をあらわした(一九〇一)与謝野晶子は、女として人間として彼女のうちに燃えはじめたロマンティシズムの性格が、鉄幹の「荒男神」ロマンティシズムと、どのようにちがうかということは自覚するよしもなかった。二十三歳であった晶子は、『明星』にひかれ、やがて鉄幹を愛するようになり、その妻となったのであったが、その時代に生れた『みだれ髪』一巻は、前期のロマンティストたちが歩み出すことのできなかった率直大胆な境地で、心と肉体の恋愛を解放した。『みだれ髪』は当時の日本に衝撃を与えて、恋愛における人間の心とともに肉体の美を主張したのであった。
「当世書生気質」には遊廓が描かれていた。「藪の鶯」の中では、いわゆる男女交際と、互いにえらびあった男女の結婚が限界となっていた。一葉の生活と作品の世界で「恋」は切なく、おそろしいものであった。紅葉は作家が自身の恋愛問題を作品として扱うことを「人前に恥をさらす」と考えた。藤村の「お小夜」「つげの小櫛」の境地は、『みだれ髪』にうたわれた女の、身をうちかける積極性と、何とちがった抒情の世界であるだろう。『みだれ髪』は現代文学の中に、はじめて女性が自身の肉体への肯定をもってたちあらわれた姿であった。
 晶子のこのような生命の焔、詩の命が、みじかい数年の後に次第に色あせてゆき、官能の自然発生的なきらめきを、その作歌の中で成長させ高めてゆくことが出来なかったのは遺憾である。一九四二年にその長い生涯をとじるまで、晶子は文学活動においても母としても実に多産であった。『みだれ髪』から『春泥集』(一九一一)に移ってゆく過程には
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あはれなる胸よ十とせの中十日おもひ出づるに高く鳴るかな
いつしかとえせ幸ひになづさひてあらむ心とわれ思はねど
人妻は七年六とせいとなまみ一字もつけずわが思ふこと
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など深い暗示をもつ歌も生れた。
 つぎつぎにうまれる多くの子供らを育て、年毎に気むずかしくなる良人鉄幹との生活を、母として妻として破綻なくいとなんでゆくためには、経済的な面でも晶子の全力がふりしぼられた。短歌の他に随筆も書くようになって行った。随筆で、晶子は不如意な主婦・母親としての日常を率直に語って、生活的であった。晶子が書く政治的な論文は、当時の婦人には珍しい
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