のであったそうだ。そして、家賃として余り珍しい廉価が記入されていたので、そこを参観した経済専門のある婦人が、東京にこんな家賃の家が実際にありましたろうかと質問したらば、それはあることは在ったのだそうだ。池袋かどこかの隅にたった一軒そういう家があった。それで雀躍して、その統計の土台につかったのだそうであった。しかし、東京のうちに一つか二つという例外の家賃を基礎にしてこれこれで家計は切り盛れる統計として示し得るものであろうか。どうしても、一定の貯金が可能であることを示そうとしてそのような無理がなされているのだそうであった。
真の文化性、文化に立った婦人の創造力というものは、こういう非合理や非現実に自然な居心地わるさを感じるものだろうと思われる。教育の程度というようなものが、文化の程度や質と一致するといい切れない適切な実例であると思う。教育は彼女たちに物価指数ということを教え、生計指数ということを教え、統計や図表の製作を可能にした。しかし、生きている生活の姿は、一つの先入観となっている目的を達するために歪められて、あるままの条件、そのうちにこそ国民の多数が生きているその条件を、無視してしまっている。そのような悲しき滑稽というべき婦人の非論理性はどこから忍びこむかといえば、窮極にはその図表の製作者たち自身の実際の生計は、その図表の求めている窮屈な総計の枠内に営まれているのではないという現実の隙間からすべりこんで来ているのである。
彼女たちは、その家政科の学識を駆使して、まず一定の生産的な社会的な勤労に従う男女はどれだけの食餌、どれだけの休養、どれだけの文化衛生費を必要とするか、客観的な標準を立てて、さておのおのの収入総額によってどれだけの不足がどの部分に生じているか、それは今日どんな形で補充されているか、本来ならばこの方法によるべきであろうというところまで示してこそ、リアルな生計図表が社会生活の進歩の方向をとって作られたといえるであろう。
創造の能力というものはもとより無から有を生じさせる魔力ではなく、必ず素材的な何かはすでにあるのだが、それの模写ではないし、ただのよせあつめの累積でもないし、ましてや、あのものとこのものとの置きかえではない。一と一とを足して二になるという関係ではなくて、そこから新しい質の一を産み出してゆく力が創造の力であると思う。過去の歴史の絵巻が示しているとおり文明があるところまで来てその文明の故にかえって文化を低めるようになる場合、文化の創造力というものは、常にもっとも多難な道を辿るものである。そして、その過程で婦人が負うてゆく文化性というものは、その国の社会の歴史が婦人にもたらしている実に複雑な条件とからみ合いつつ、粒々辛苦の形で護られ、成長させられてゆかねばならない。[#地付き]〔一九四〇年一月〕
底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
1952(昭和27)年8月発行
初出:「科学知識」
1940(昭和15)年1月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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