おもひ出づるに高く鳴るかな

いつしかとえせ幸になづさひて
      あらん心とわれ思はねど

人妻は七年六とせいとなまみ
      一字もつけずわが思ふこと

飽くをもて恋の終りと思ひしに
      此さびしさも恋のつゞきぞ

恋といふ身に沁むことを正月の
      七日ばかりは思はずもがな
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 晶子の歌といえば、「やは肌の」や「鎌倉や」などが表面的な斬新さでもてはやされ、特徴づけられているけれども、「御仏は美男におはす夏木立かな」というような興味で世間から彼女の芸術が期待され、その期待に沿って行かなければならなかったところに、却って芸術家としての晶子の真に立派な成熟をおさえた悲劇がかくされているようにも考えられる。
 晶子は婦人の芸術家としての長い生涯を実に旺盛に力をつくして生きた。作品も多産であるし、母として十二人の子たちを産み、そだてた。文筆で生活をたててゆく辛苦もひとかたならなかった。四十歳前後には社会時評、婦人時評その他の評論をもかいて『太陽』に発表し、「男子を瞠若たらしめる」と評された。
 今日からみれば、それらの評論はまだ男の所謂評論調を脱していず、女の感覚や文章の肉体が自在に溢れていないものではあるが、実際に芸術家、妻、母として生活の波とたたかっている壮年の婦人が、社会の因習に向ってその打破をもとめてゆく力はこもっている。『青鞜』の人たちが、現実的な社会時評は出来ないような、どちらかというと観念だおれな生活の空気にいたのに対して、晶子の評論は社会時評の範囲へずんずん入って行っていて、時には政論さえやっている。随筆では率直な話しかたで家計の苦しさ、その苦しいなかから子供たちの遠足の仕度に、原稿料をかきあつめて神楽坂に出かけて、バスケットやタオルなどをかってやったりしている母の心づかいが描き出されている。
 随筆にあるそのような婦人の芸術家として全く生々しい生活の匂いや、評論に示された因習への譲歩しない対抗の態度が、何故彼女の短歌の世界へは反映されなかったのだろう。婦人の芸術というものの在りようの問題として関心をひかれずにいられない。
 晶子は、ごく少ししか子供の歌をつくっていない。台所の景物だの買物のことだの、日常の生活的情景はその短歌の世界にとり入れられていない。初期の恋愛の情熱的な表現から次第に「蕪村と源氏物語」を交ぜたような濃艷、幽怨趣味にかわり、主として自然の風情だの
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天上の善き日におとる日としらず
      おんいつはりの第一日を
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という調子で情懐をうたっている。三十七年の、「君死にたまふこと勿れ」という、戦争へ抗議した有名な長詩で、当時の「愛国詩人」大町桂月と『明星』とが論争したことも、日本の近代文学史の上で記憶されるべき出来ごとである。晶子が短歌の世界と散文の世界とを区別して、歌ではいずれかというと刻々の現実から何歩かあゆみ離れた境地[#「境地」に傍点]とでもいうものをもって制作していることは、『明星』のロマンティシズムの時代的な弱さとしてみられる。ああいう歌をつくる人が、このような議論も書くということに対して瞠られる目。そして、生活はこのようにして、と身近な同感で随筆も読まれるということは、一応は一人の婦人芸術家のゆたかな多面性のようではあるが、文学の現実としてみれば、歌にある情緒の型と随筆評論のうちにある生活的な意志との間の分裂を、ただ多様性とばかり見ることは出来ない。
「たけくらべ」が前期ロマンティシズムのきわまった所産として完成をもっているのは、その作品の世界が当時の多くの作品のような架空に立っていないで極めて具体的現実的な細部の描写を基礎としていながら、全節を一つの詩情でくるんでいる、その美感であった。
 晶子の時代になれば、ロマンティシズムも既にそういうまとまりのうちに止まれない歴史性をもって生まれて来ている。大局からみれば、短歌における詩情というものの解釈や古来伝承している風趣への関心が、出発において溌剌生新であったそのロマンティシズムを、やがて評論や随筆に見られる社会的要素から遊離したものとしてしまったと考えられる。このことを逆にみれば、散文の著作では従来男のかいた論文の調子にそれなり追随する結果ともなって、晶子でなければ求められない論調の表現、リズム、詩性にまでたかめられた理性の光波というものは、見出されないままに止まったのである。
 晶子は、いつか自分のこのような深刻な分裂に心づいた時があっただろうか。或は、ずっと気づかぬままに、年が閲《けみ》されたのではなかろうか。あれだけ多量に影響のつよい作歌活動を行ったにもかかわらず、晶子は、自身として創作についての理論をもっていなかったことは『みだれ髪』以後、折々の芸術談にうかがわれる。『女学世界』の記者が、女流詩人の選手として晶子に作歌上の心がけを訊ねたとき、立派な歌を学ぶことと並べて、自分は自然にひとりでに歌をつくっているという一点を強調している。与謝野寛が丁度大阪に行っているときかで、そういうむずかしいことは主人にきいて下さい、お前がまた妙なことを云ったと叱られますから、という意味の言葉で笑い消している。
 婦人の文学上の活動の歴史にとって、何と忘れ難い晶子の答えかたであるだろう。「やは肌の」は感性に溢れる自然発生の積極さはあっても、女の芸術上の自覚としての芸術理論はつかもうとされていない事実は、決して晶子の場合だけではない。そこに、明日の婦人作家への課題も蔵されている。一葉も、芸術に対する気構えはつよくもっていて、その芸術至上の気魄は評伝家たちに高く評価されている。けれども、創作に当っての方法などについての理論はもっていなかった。『文学界』の人々の談論や雰囲気が、従って一葉にとって知られざる創作方法の導きての役割を果して「たけくらべ」も生まれた。
 晶子はその点或は一葉よりも一層受動的ではなかったのだろうか。鉄幹が子規その他のグループに対して行った芸術論争は常に息のあらいものであったらしく、そこには、『明星』終刊に際して岩野泡鳴が「僕は君の雑誌のため黙殺または罵倒されかけたことも度々ありしなれど、あれは皆君が雑誌経営上から来ていたことゝ思はれたにつき」云々と云っているのは一面の真をつたえていると思う、と後年茂吉に云わしむるものもあった様子である。
『明星』は明治四十一年十一月に、満百号で廃刊した。「経費の償はざること一、予が之に要する心労を自己の修養に移さむとすること」が鉄幹の理由であった。ここには、『明星』のロマンティシズムの内容にも既に本質的な分裂としてかくされていた写実的自然主義文芸思潮の成長と、ロマンティシズムに象徴派が影響しはじめた時代の推移が背景として含蓄されているのである。
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御空より半ばはつゞく明《あか》き道
      なかばはくらき流星のみち
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     四、入り乱れた羽搏き
          一九〇七―一九一七(明治四十年代から大正初頭へ)

 近代日本文学の歴史のなかで、自然主義の潮流がその推移の裡に示した姿と役割とは実に複雑で、興味ふかいものであった。
 永井荷風「地獄の花」を出しゾライズムを唱う、と記録されているのは明治三十五年のことである。
 花袋が「露骨なる描写」を主張して立ったのが三十七年であった。
 日露戦争は、近代資本主義の一歩前進として日本の社会生活全般を震撼させた。それが表面の勝利をもって終った三十八年には日比谷の焼打事件があった。その囂々とした世間の物音をききながら、漱石の「吾輩は猫である」が『ホトトギス』にのりはじめ、藤村が独特の粘りづよさで当時の環境とたたかいながら「破戒」を完成したのは、翌三十九年である。泡鳴が「神秘的半獣主義」という論文を書いたのもこの年であったし、明治三十九年という年は、自然主義大いに興った年として特記されている。
 四十年の文学の舞台では、正宗白鳥、徳田秋声、国木田独歩、真山青果、二葉亭四迷の活動が刮目されて、花袋の「蒲団」と二葉亭四迷の「平凡」は文学史的な意味をもった。こうして、四十一年になると藤村は「春」正宗白鳥は「何処へ」「二家族」、花袋は「生」等をもって、長谷川天溪の論文などとともに、自然主義の完成期を示した。
 しかし、この自然主義の完成期、成熟期はまことに短かった。或る一定の期間、その成熟した活力によって幾多の傑れた実を生むまでの継続した期間がなくて、社会の圧迫よりも本能の圧迫を感じると叫んでいた花袋でさえ、僅か三年後の明治四十四年には、「男女の魂の問題を題材とするようになった」。つづいて激しい精神的動揺の数年を経て、一九一七年大正六年ごろには遂に「自然主義的なものを逸脱し、宗教的、哲学的」となって行ったのであった。
 自然主義が、客観的描写をとおして、現実の真に迫ろうとしつつ、平板、瑣末、所謂暗い面の一方的な強調、単なる露骨さに陥ったということには、自然主義そのものが本来ふくんでいた現実の観かたの不十分さ、創作方法上の未熟さと、更に結びついて日本独自な伝統からもたらされた現実に対しての受動的な文学態度との関係があった。あれだけの熱風を捲きおこして、より広い、より多様な人間性の活躍の素地を拓いた運動が、新しい領野で一層豊富な近代のリアリズムへ伸び得なかったのは何故であったろう。その後、自然主義文学以前には思っても見られなかった闊達な文学的雰囲気の裡に育った若い世代が、ネオ・ロマンティシズムと呼ばれた唯美的、頽廃的、神秘的な傾向へ転化して行って、耽美的な「刺青」(谷崎潤一郎)、題そのものが作品の色どりを物語っているような三重吉の「千代紙」「赤い鳥」、夢幻的な気分で貫かれた秋田雨雀の作品、小川未明の作品などに、次代の声々をあげはじめたのは、何故であったろうか。そこには、漱石が、「自然派伝奇派の交渉」で語っているように、自然主義とロマンティシズムとは「対生に来る――互いちがいに来るのが順当《ノーマル》の状態」というばかりで説明され得ないものがあった。明治四十三年に出た永井荷風の「冷笑」の序はこういう一節をもって現れた。「自分の著作『冷笑』は享楽主義をのみ歌ったものではない。寧ろ享楽主義の主人公が風土の空気に余儀なくせられて、川柳式のあきらめと生悟りに入ろうとする苦悶と悲哀とを語ろうとしたものである。」嘗て誰よりも早くゾライズムを唱えた荷風は、こうして社会批評の精神の放棄を自ら告げているのであるが、彼をこめての当時の若い作家たちの生活感情には、四十三年の幸徳事件以後、日本の社会に猛威をふるいはじめた反動保守の力が、微妙で強力な作用を及ぼした。当時は、科学書『昆虫社会』という本が「社会」というおしまいの二字のために禁止されたという有様であった。一旦自然主義の濤に洗われて目ざめた若い男女の個性、自我、つよく味い、つよく生きんとする欲求も、おのずから発展の方向を限られて、社会的現実から逃避したロマンティックな傾きに趨《はし》らざるを得なかった事情も肯ける。自然主義から流れ出たリアリズムへの道は、四十年代の色彩濃いネオ・ロマンティシズムの芸術の世界を、地味に縫いとって徐々にすすめられて行った。既に知りつくされているとおり、自然主義は、所謂自然派の人々の間にもいくとおりもの見解をもって理解されていた。しかし、現実曝露の核心が、主として男女間の性的交渉の、感覚上の経験の告白におかれたことは、その目立った特徴であった。当時の表現をかりれば、肉の悩みを露骨に描いたのであったが、この傾向が当時の知識人の間に与えた印象は興味ふかいものがある。「読者より見たる自然派の小説」という題目で『文章世界』が、諸家の感想をあつめたとき、柳田国男氏は「自然主義小説に第一ありがたいことは人物事象の取扱いかたが超然としていること」第二に「大団円のつかない小説が通りはじめたこと」をあげて、最後に「自然派というと肉慾を書かなければならないと思うの
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