さんは、女中ともつかず、内弟子ともつかず、働く人として弟子入りをなすった様子に見うけられました。」
この数行をよめば、その時代の一葉の境遇が痛いように私たちの胸に迫って来る。
当時、日本は明治初期の欧化に対する国粋主義の反動期に入っていて、上流の人たちの間には、一度すたれかかっていた和歌だの国文学の教養が再びやかましく云われはじめていた。中島歌子が経営していた萩の舎の歌塾は、佐佐木信綱の追憶などによってみても、当時は大した勢のものであったらしい。和歌の例会の日には、黒塗の抱え車が門前にずらりと並んで、筆頭には、その頃錦鶏の間祗候田辺太一の愛娘であった花圃をはじめ、名家名門の令嬢紳士たちが花の如く集って来た。森有礼の理想によって、女子の最高学府として設立された一つ橋の東京高等女学校のポスト・グラデュエート(専修科)に通っていた花圃は、そういう歌会の席でも、床の間の前に坐っていたというところに、おのずから置かれていた地位がうかがえる。それらのはなやいだ才媛たちがうち興じながら、何心なく誦した赤壁の賦に和した僅か十五歳の夏子の才走った姿も目に見えるようである。また、彼女のかくし切れない才が穂にあらわれたとりなしが若い貴婦人たちの感情へはいきなり「なんだ、生意気な女」と、つよく映ったというのも面白い。当時まだ「家来《けらい》」というものを日常身辺にもって暮していた上流の若い婦人たちが自分たちが坐っている前へおすしを運んで来るような身分の軽い少女に対して、風流の間にもはっきりと身分の差別を感じていたというのは、こわいように思える。
一葉の二十五年の短い生涯を、貧窮が貫いたのは周知のとおりだけれども、この時分はまだ一葉の両親は在世であった。明治五年に、東京府庁の山下町の官舎で、樋口家の次女として生れた夏子は、六つで本郷小学校へ入学した。しかしそこはどういうわけかすぐ退学して、手習師匠のところへ通わされ、十四年に家が下谷に移ったのち、その冬から池の端の青海小学校に通学した。そこに通ったのも二年ばかりで、またやめて、翌十七年に、和田重雄という父の知人である歌人の門に入った。十三の少女は、
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いづくにかしるしの糸はつけつらむ
年々来鳴くつばくらめかな
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という、生気のある愛くるしい歌をつくったりしている。そこに通ったのも
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