作者とともに、女の理想として、生意気に亙らない範囲で物を知っていること、全く旧套によるのではないがさりとて全く自身の責任で生活してゆくというほどの社会的な独立を求めるのではなく、ふさわしい配偶を得て、内助の形での品のいいともかせぎの生活を描き出している。
 当時はものを書くにも学問として伝統をふんだ教養が必要とされていたから、女でそのような教養をそなえることの出来たのは、結局上流の子女たちばかりであった。従ってふさわしい好配偶というめやすも、浪子の言葉がおのずから限定しているとおり、何かの意味で社会的には「殿様」であるということになる。そのような良人たちの開化の精神の位置と程度とは、我が愛嬢を中心にお茶屋がひらけると冗談を云う大官たる作者の父親の心情と、果してどの位距りをもっていただろう。福沢諭吉が「新女大学」の腹案を抱いたのは明治よりも昔のことであったのに、それを発表したのはやっと明治三十二年になって女学校令が出てからのことであった。その理由として、福沢諭吉は、世情はそんな女子教育論など真面目にとりあげる状態になかった事情をあげている。そうとすれば、若い婦人たちの教育見識そのものが、男の側からの「生意気でない範囲」を己の埒としていると同じように、文学の仕事も、つまりは六分の旧套を守って行われている上層社会の日常生活に負担とならない程のたしなみ或は余技とならざるを得ないわけであったろう。
 中島湘煙が、女に文学の業はふさわしい、台所や茶の間に一寸手帳をおいても物を書いて行かれるから、とその頃の女学雑誌で云っている。が、文学の本質的な精励は、半封建の日本の婦人にとって、上流人であってさえも、そんな手軽なものでなかったことを現実が証拠だてている。また篁村が「絵画と小説は特に婦人に適す」と云ったことは、近代のロマンの精神の理解に立って、婦人の社会生活のひろがりとそこからの表現の可能としてとりあげられているのではなかった。小説というものについての前時代的な解釈、軟文学としての理解で、女にも出来ることという過小評価が吐露されていたことがかえりみられるのである。
 この時代に「婦女の鑑」一篇を発表して、その後の文学活動は見られなかった木村曙の作品は、私たちの心にのこる何かをもっている。筋の組立ての人為的な欠点や文章の旧さ、登場人物の感情の或る不自然さなどが欠点として目立つにしろ
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