小説を時々『新青年』に売ったりしつつ、平林たい子は『文芸戦線』のグループに近づいた。そして彼女の文学的一歩を印した「施療室にて」が生れた。
 一九二五年に書かれた「投げすてよ!」という作品は「色々な意味で苦しんでいた自分にもよびかけ、女性の新境地を描くことをもって」当時新しくおこったプロレタリア文学に「独特の生面をひらく決心をした」作品として、作者自身にも評価されている。「投げすてよ!」は、この作者の代表作である「施療室にて」などとともに、アナーキストである男と朝鮮、満州を放浪した時代の生活を描きつつそこから何かの方面へ脱け出て行こうとする一人の若い女性のもがきを描いたものであった。
 この作品に描き出されている男女の関係は苦しく混乱し、虚無的である。「布団で押えつけられるような息苦しい小村の愛がどろ/\と淀んでいたばかりであった。女をまもる為には、思想までを古着のように売飛ばす痴者を光代はしみ/″\と自分の傍に感じた。」しかし、そう感じながら光代はその夫について、大連まで放浪して行く。「腹の子はどうするか」「彼を失って自分の生活は果して幸福かしら」そんなことにも心をとられる「意力のない、男性の一所有物にすぎないはかない女を光代は驚いて自分自身の中に見た。」そのように自分を見ている作者の感情には、前途のない旅立ちの前、船つき場で荷物を乱暴になげとばしている「人足の動作にまで自分に訓えている意味を感じて」それを「フヽンと鼻でわらった」人生への角度なのであった。
 殖民地の鉄道会社でシャベルをもって働くようになると、小村という男はそこの経営主である義兄の気分に媚びて日常的に益々無意力になりつつ、その力ない鬱積を洩して何か書きちらしたノートを義兄に密告されてとらわれてゆく。お光! お光! と呼びすてられて姙娠の身をこきつかわれていた光代は、その家を追われ、婦人ホームへ身をよせる。「小村からは顔を掩いたいようなあわれみを乞う調子の手紙」が来るのであるが、光代は、自身に向ってあらゆる感傷を投げすてよ! と叫びかけ、自分の足の上に立った婦人としての道を進もうと決心する心持で、その小説は結ばれているのである。
 一九二七年にかかれた「嘲る」という短篇は、大正末から昭和のはじめ頃のアナーキストの群の生活感情、ものの考えかたを、そのうちに息づいた女の側からむき出しに描いていて、これま
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