次第に一人の女として成長して来る生活のいろいろの断面が語られている。志賀直哉に師事したこの作家の作風は、甘さと誇張のない地味な、要約してリアルな描写力をもっている。婦人作家に共通な多弁や情緒の誇示、ポーズのない純潔な筆致であるけれども、その筆致に力を与え、テーマを人間的に一段高める気魄、常識以上の人生への態度のつよさが不足している。そのうらみは「光子」にも感じられた。
昭和二年七月におこった芥川龍之介の自殺は、そういう時代の空気に深刻な衝撃をもたらした。彼はプロレタリア文学運動に対して単純な保守ではあり得なかった。単純に反動であり得るために芥川龍之介は聰明すぎた。「敵のエゴイズムを看破すると共に味方のエゴイズムをも看破する必要」と云い、もし善玉、悪玉に分けてしまえるならば「天下はまことに簡単なり。簡単なるには相違なけれど――否日本の文壇も自然主義の洗礼は受けし筈なり」という附言とともに、「蒼生と悲喜を同うするは軽蔑すべきことなりや否や。僕は如何に考ふるとも、彫虫の末技に誇るよりは高等なることを信ずるものなり」と云った。同時に「新感覚派」の試みに対しても、芥川龍之介は、芸術上の冒険の一つとしての注目を示している。
彼は、自身の日常生活にある旧套の重荷についても知っていた。しかしながら、彼はその気質から、例え彫虫の末技に誇るよりは高等なる本質を認める文学の傾向に対しても、やはり最後には、自身の知的な優越に立って無限の皮肉を含みながら「唯、幸に記憶せよ。僕はあらゆる至上主義者にも尊敬と好意とを有することを」と云わずにいられないものを持っていたことは、悲しき彼の矛盾であった。同時代人の知っているほどのことなら知らぬことなく知ろうとする芥川龍之介の負けずぎらい、同じ時代の久米正雄、菊池寛等が大衆小説にうつり、菊池の「文芸春秋」などが企業として伸びてゆくのに対して、あくまで芸術的な短篇作家としての境地を守り、「玄鶴山房」のような作品を生み、やがて「歯車」「或る阿呆の一生」などを書いていた。ゲエテのみならずあらゆる傑出した万人を気取るものなりと、諧謔のうちに本音をはいている彼として、如何なる力を奮い立てれば新しい歴史の頁から溢れはじめた澎湃たるプロレタリア文学運動に対してその天才主義を完うすることが可能であると思えただろうか。
遺稿となった「或旧友へ送る手記」の中で彼は次の
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