を語る芸術の方法となって行った。
宇野千代は、これまでの婦人作家たちとは全くちがった生活の環境を通った人、又通っている人として当時の文学の分野に出現した。田村俊子がアメリカへ去ってしまってから、文壇と文学愛好者たちとは、田村俊子がその肉体と文学とから発散させてあたりに撒いていたような色彩と体温とを失ったままでいた。宇野千代がその作品中で「もっと困っていたのだったら屹度淫売をしただろうと思えるような困りかたであった」と云う女としての生活の苦の語りよう。だが「貧乏が苦にならない」「その上に彼女は性来の怠け者であった。そして怠け者に賦与された或る本能を持っていて」それに導かれつつ時々の世わたりをしてゆく我から捨てたような風情。しかもその一面には、ほかに着る物一枚なくて男のどてら姿で往来を歩いていても「私は仕方がなくてこんな恰好をしているのじゃないのよ、唯ほんの物好きでやっているのよというようなしぐさをするのであった」という自分の姿の眺めかた。それらは、野上彌生子にも小寺菊子にもない線と色調と人生に向っての身ごなしであった。
田村俊子は、その作品を感覚と情痴とで多彩にもりあげたが、そこには女として自分の肉体と情感とを旧い男の支配力に向ってうちかけ、主張してゆく形としての現れであった。所謂女の我ままは、女性のこの社会における存在権の表現として、十分にその場所をとっており、狂暴をさえ男、世間の平俗さに対して女の感情の燃え立つ生活力として肯定されていた。
けれども、谷崎潤一郎のネオ・ロマンティシズムさえ徒に情痴に堕したこの時代のエロティシズムへ、婦人作家としての特徴をすすめて行った宇野千代の、新しさの要素、魅力の要素は、田村俊子の示したものとは正反対のものであった。女の愛らしいもろさ、人のよいようなはかなさ、嫋々《じょうじょう》たるところを近代の脂粉のなかに我から認めて、女としてそこへ我が身をもたせかけ行くポーズにあった。男と野暮に言い争ったりしない女の提出であった。この作家は文学的自伝「模倣の天才」の中で次のように云っている。「恐らく瀧田氏(当時『中央公論』の編輯者)は私が、あの給仕女であった私が小説を書いたということに興味を感じてあれを読んでくれたのであろう。給仕女が小説を書く。それはどこかの育ちの好いお嬢さんの書いたものよりも確かに六割方とくであるに違いない」と。そし
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