められている。女の姉妹たちは、「単に怨み多くして怒少なきなり」それではまちがっている、堂々正論を行う心持を養わなければいけない、という極めて明快率直な趣旨なのだけれども、それが書かれている文章はというと、「幸に濃妝《のうせう》をもつて妾が雙頬《さうけふ》の啼痕《ていこん》を掩《おほ》ふを得るも菱華《りやうくわ》は独り妾が妝前《せうぜん》の愁眉《しうび》を照《てら》さざる殆ど稀なり」という文体である。私というところが男のとおり「余」と書かれている。そして、こういう漢文調の論文の終りには細かな活字で、アリストートルの詩の句が英語で引用されているのである。
開化期の文学は混沌としていて、仮名垣魯文のように江戸軟文学の脈を引いて、揶揄的に文明開化の世相風俗を描いた作者がある。その一方では「佳人之奇遇」などのように、進歩の理想を漢文調で表現した政治小説翻訳作品があり、中島湘煙のようなひとは、後の部に近くあったのだろうと思われる。
当時の教養の伝統が、こんな矛盾を湘煙にもたらしたということもあるけれども、その士族的な教養そのものが示しているとおり、当時の男女同権論者にしろ、女権のための運動家たちにしろ、その主体は一部の上流的な有識男女の間にとどまっていたのだということを、沁々考えさせる。
さもなければ、湘煙がどうしてああいうむつかしい文体で文章を書いて納っていられただろう。もしも、日本の女のおくれた生活というものが、あちこちの露路、そちこちの村で営まれている日々の生活のままに湘煙の心に映っていたのならば、彼女もおそらくはそれらの女性への同情からだけでも、「濃妝をもつて妾が啼痕を」とは書かなかったであろうと思われる。
旧いものと新しいものとの混乱は別の形をとっても現れている。明治二十二年一月から読売新聞にのった木村曙(岡本えい子)の「婦女の鑑」という小説は、トルストイの「クロイツェル・ソナタ」がかかれた時代、モウパッサンの「死の如く強し」があらわれた同じ年の作として読むと、様々の意味で私たちを駭《おどろ》かすものがある。この小説は先ず、
「冬枯れし野辺も山路も衣換へて自づと告ぐる春景色花の色香に誘はれて」
という七五調のかき出しで、某侯令嬢国子その妹秀子が、飛鳥山に新築された別荘へ花見がてらコゼットというアメリカの女友達を招待しようとおもむく道すがら、飛鳥山の花見の人出の
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