松魚と結婚する迄の俊子は久米八と同座したり川上貞奴の許に出入りしたりして女優生活を送りながら、新しい時代の文学の空気の中に生きていたのであった。「あきらめ」という小説は、選者であった抱月も云っているように、その一篇のなかにこの作者のあらゆる資質の芽と浅草蔵前の「昔の札差」という家に育った境遇の色どりがうちこまれている点で、興味ふかい作品である。白絽の襟を襟止《ブローチ》でとめ、重ね草履をはきお包みを片手にかかえながら、片手にもった扇子を唇に当てがって歩くという気分の女学生。その脚本が好評で上演されるようになったら、学校から悶着を出されたというような、当時の女子大学生の富枝をめぐって、複雑な下町風の人事のあや。芸者や踊の師匠の明暮の光景あれこれ。女優生活の裏や表までが、自然主義の作風に近い平面な組立ながら、耽美的な、又官能的な都会人の気分をこまかに追って描かれているのが「あきらめ」であった。女学生同士がお姉様、妹という呼びかたで示しあうのが流行であった一種独特の感傷的な愛着。姉さんはそうやって女子大学に行っているのに、妹は芸者屋へ養女になっていて、早熟な、その社会では習俗となっている恋の戯れめいたいきさつを義兄との間に生む気分。そういうものも作者は自身の濃厚な気分をそこに絡めて描き出しているのである。「あきらめ」につづいて、「誓言」「女作者」「木乃伊の口紅」「炮烙の刑」と進むにつれ、田村俊子の気質と作品とは、益々あますところなく当時のロマンティックな文学の潮流に谺《こだま》しながら、その流れのなかでも、まことに際だった一筋の赤い糸となって行った。官能を描く筆は執拗と頽廃の色を重ねつつ「女の前にだけは負けまいとする男の見栄と、男の前にだけ負けまいとする女の意地」とが、芸術上の張り合いの中で、逼迫した日常生活の気分の齟齬の間で、苦しく悶え合う姿をおおうところなく描いた。それらの作品が、当時にあっていかに独特、それでいて共感と刺戟を与える存在であったかは今日でも尚十分に推察出来る。「木乃伊の口紅」は、そういう意味で、血のしたたるような作品であると思う。義男という創作力を喪った男が「自分一人の力だけでは到底持ちきれない生活の苦しさから女をその手から弾きだそう弾きだそうと考えている中を、こうして縋りついていなければならない自分というものを考えた時、みのるの眼には又新しい涙が浮ん
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