は、この時代の前後であったろう。婦人の文学活動の展開される場面も数多くなり『新潮』『文章世界』などのほかに、『スバル』もあり『番紅花』『詩歌』『朱欒』等のほか、片山広子のアイルランド劇研究の載った『心の花』もあるという盛観であった。
 伊藤野枝が引きついで満一年後の大正五年の新年、『青鞜』はその経営の困難をまざまざと語って表紙には何の絵もなく発刊された。寄稿の中に吉屋信子の稚拙な詩があるのも面白く、更に注意をひかれることは、此号に初めて、山川(青山)菊栄が執筆していることである。津田英学塾を卒業してのち、社会問題の研究に進んでいた彼女は、当時まだ山川均との結婚前で、『番紅花』にカアペンタアの翻訳などをのせたりもしている。『青鞜』に彼女が寄稿したのは、伊藤野枝の廃娼運動否定論に対する反駁であった。
 当時、歌人として地位を確立していた与謝野晶子が、今日からみるとその人のテムペラメントにふさわしいとも思えない堅い論文調で、社会時評を盛に執筆していた。それまで『青鞜』の人々が、刻々の時にふれた時評をしそうであってそれをしなかったことは、彼女たちの社会的な成長の程度をも反映して興味ある事実であるが、晶子が選挙運動に婦人の活動することにふれて書いた文章に対し伊藤野枝が、そういう有閑婦人の活動を無意味なものと評価しつつ、それと同類の暇つぶし、無益な努力として、廃娼運動をも否定的に評した。野枝が「男子本然の要求と長い歴史による」もので娼妓は存在するだけの理由をもっていると云ったに対して、山川(青山)菊栄は、社会問題としての廃娼運動の必要を力説したものであった。「男子の先天性というよりは不自然な社会制度」から生れているものとして、山川菊栄は、統計をあげ、社会科学の問題としての立場を明かにしつつ傍ら社会問題に対する野枝の気分まかせの投げやり、根気弱さを批判した。
 伊藤野枝は次第にそれへの部分的な共鳴と反撥、弁明|交々《こもごも》の感想を発表したのであったが、両者は完全な一致を互の間に見出さず、野枝が大杉栄の新著『社会的個人主義』についての好意ある紹介をしていることは、単に意味ふかい偶然であったとだけ云うべきであろうか。
 欧州大戦三年目の日本では、吉野作造がデモクラシーを唱え一般に強い反響をよびおこしていたが、『新社会』による堺、高畠、山川均等と『近代思想』によるアナーキスト大杉栄
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