も何にもたしかな物が写っていないとき、「どうしているの?」と云われたら恐らく、答えに窮するにきまっている。
私は困ったことをしたと思いながら様子を見ていると、彼は暫くたってからのろのろと、顔を私の方に向けた。そして、非常に突出した、瞬きをすることの少い目玉を据えて、私を見ているような位置になった。
私も彼を見ていた。私はほんとに注意して、観ていたのである。
そうすると、だんだん彼の顔付が凄くなって、仕舞いには、「彼の感じ」がそろそろと私の顔に乗り移って来たような気持がして来た。
もう、私は意地も我慢もなくなった。そして、一散走りに家へ帰ると、力一杯顔を洗い、鏡を見つめて、ようよう気が休まったのである。
最初の試みは、私の例の幻覚ですっかり失敗してしまった。けれども、それから二度目三度目になると少しずつ彼に馴れて来た。
が、やはりだまったまま一緒に立っているか、何か云って彼の注意力をためして見るばかりで、一向進むことはない。
私は彼の囲りを、堂々廻りしているような工合であった。
善馬鹿の子に対しては、全く何も出来なかったけれども、他のことは少しずつ好い方に向いて行った。
足の裏の腫物のために悩んでいた百姓は、町の医者に掛って癒った。
桶屋の娘へは、ときどき牛乳だの魚だのを持たせてやった。
そして、ほんとに下らないことではあるが、癒った男が畑に出ているのを見たり、甚助の子供が、遣った着物を着ているのを見たりすることは、むしょうに嬉しかった。歩き出しの子供が、面白さに夜眠ることも忘れて歩きたがる通りに、私も一人でも自分の何かしてやることの出来る者が殖えれば殖えるほど、元気が付いた。
また実際、どれだけしてやったらそれで好いという見越しはつかないほど、いろいろな物が乏しく足らぬ勝であったのだ。
私は、自分の出来るだけのことを尽そうとした。
けれども、私は「自分のもの」という一銭の金も一粒の米も持っていないので、誰に何を一つやろうにも一々祖母にたのんで出してもらわなければならない。
それが、私のしようとすることが多くなればなるほど屡々になり、随ってだんだんたのむのが苦痛になって来る。
が、然しそれは仕方がなかった。私はほんとに、無尽な財産がほしかった。そして、この村中を驚くほど調った、或る程度まで楽な者の集りにして、貧しい者は人間だと思わないよ
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