あなた。そして、何番地かって。千六十九番地ですって云うと、そんな番地どこにもありゃしないってんですもの、私――」
 志野は、
「ああ、思い出しても厭んなっちゃう」
と吐息をついた。
「でもね、今中さんてお産婆さん、親切だったから私助かったのよ、ひょいと看板を見て入ったんだけど。……そのお婆さんがここを知っててね、それで私来るようになった訳なのよ、実は――」
 房は、その辺まで律に聞かされていた。その時から、彼女の気になっていることが一つある。房は、低い声で訊いた。
「――そいで――どうしたの――その生れた……」
「ああ」
 志野は、早口でさも事なげに答えた。
「一週間ばかりで死んじゃったわ」
 それをきくと、房は何故だかぞーッとした。

        五

「ねえお志野さん」
 或る夜、房はしみじみと云った。
「――あなた……いつまで今の局にいる積り?」
 志野は、罪のない訝しげな表情で房を見た。
「何故?――いきなり……」
「――いい加減にして国へお帰んなさいよ」
「おかしな人!」
 志野は、小粒に揃った歯を出して快活に高笑いした。
「どうしたのよ一体――あなた帰りたくなったの?」
「そうじゃあないけど――いつまでいたって同じこっちゃあないの」
「そりゃあそう見たいだけど――変ね、どうしたのよ」
「帰らないんなら引越しましょうよ」
 やっと、房の気持がほぼ推察され、志野は落着いた様子になった。
「私、妙な性分だから、あなたが何だか噂にとりまかれて、どっちつかずに貧弱な暮しをしてるのが切なくなって来たわ。――そろそろ本気に考えて、働くなら働く、お嫁にでも行くんならそうと、きっぱりした方が本当に身のためだと思ってよ」
「そうなのよ、そりゃあ私だって考えてるわ」
 志野は素直に云った。
「全く私なんか半端で仕様がないのよ、局の給料なんぞ、五年勤めたって、安心して暮すだけはとれないものね――局ばかりじゃあないけどそりゃ。どこだってひどいのよ。この頃女一人が誰にもたよらず遣って行けるだけのものをちゃんとくれるとこなんてありゃしないけど――でも、どんなことしたって国へなんぞ帰るもんですか」
「何故よ」
「国へ帰って御覧なさい、私みたいな貧乏人の娘は、どんなことしたって浜人足の女房が関の山よ。その上、ひょっと、ね、いろんなことでも知れて御覧なさい、もう鼻も引かけられやしないわ。――そんなこと私いや! 東京にいりゃ、ものの分る人が多いし、世間が広いもの――私さえ心掛けをちゃんとしていりゃ、落着くにしろ、浜人足よりゃ増しな人が見つかるまいもんでもなくてよ。――私みたいに生みっぱなしにされた者は、仕合だって苦労して自分で見つけなけりゃならないんだもの――」
「それにはさ、猶まわりをさっぱりしとかなけりゃ――誰だって――」
 志野は、うっとり考えていたが、独言のように呟きながら微笑んだ。
「……でも、もう少しだわ……」
「なにが?」
「――……」
 志野は首をかしげ、憧れと楽しさとが心一杯という笑顔をした。
「――今にわかるわよ」
 土曜日に、房は須田へ遊びに行った。上の娘が、セルロイドのキューピーに着せるものを縫えなどと甘え、房は九時近く帰って来た。店のタタキを入ると、いつになく琴の音がする。扉の外に、黒い鼻緒の男草履が一足脱いであった。房は、外から、
「ただ今」
と声をかけた。
「おかえんなさい」
 艶々した志野の声が高く返事した。
「丁度よかったわ」
 露台へ向って明いている窓枠に、和服の色白な男が腰かけていた。志野は琴をひかえて、室の真中に坐っている。
「あの――お房さん、さっき話した――この人、大垣さんての。もと局にやっぱり勤めてたんだけど、今会社なの」
「やあどうぞよろしく」
 大垣は、重ねていた脚だけ下し、窓枠にかけたまま挨拶した。
「お噂はかねがねきいてました」
 志野は、房に訊いた。
「どうだった須田さん面白かって? 丁度あなたとすれ違いよ、大垣さん来たの。ね、そうね」
「ああ。――丁度お出かけだってんでがっかりしていたところです。――どうです近頃は――面白い活動でも御覧でしたか」
 志野が引受けて答えた。
「ちっとも行きゃしないわ」
「――じゃあいつか行きましょうか、みんなで。――今週何があるかしら――バレンチノ――荒鷲なんての素敵だったな」
 志野が、自分の宝を自慢するように吹聴した。
「純吉さんたら、まるで活動通なのよ、外国俳優の名なんぞすっかり暗記してる位だわ。ね、そうでしょ」
 大垣は少し得意そうに、
「いやあ」
と笑った。
「そんなじゃあないさ」
 やがて、志野が訊いた。
「ね、お房さん、大垣さん、いくつに見える?」
「さあ――大人ぶっていらっしゃるわね、でもそんなにお志野さんと違わないんでしょう」
「ひゃあ、どう
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