訪ねた私たちを案内したりもてなしたりしてくれる僧侶が、大概ごく若いのにまるで大人ぶり、それも一人前の坊さんぶるのではない軽薄な美術批評家ぶって、小癪な口を利き立てる淋しさである。やっと十九か二十ぐらいの、修業ざかりと思われる若僧が、衣の袖を翻して心得顔に、
「結構なものですな。まるでギリシア彫刻を見るようです、大理石の味がある」
などと云う時、ははんと寥しいのは、私の性根がひねくれているのだろうか? 奈良の僧侶の多くの者は、祖先の遺産が沢山すぎ立派すぎて或る点スポイルされていると私は思った。種々な人間が、天平、弘仁の造形美術の傑作を研究し、観賞しに奈良を訪ねる。本当の芸術愛好家なら、仏教の信仰をそのものとして奉持しなくても、美から来る霊的欽仰を仏像とその作者とに対して抱かずにはおられない。彼等は感歎し、讚美する。端厳微妙な顔面の表情や、腕、脚の霊活な線について。よき芸術にふれた歓喜を、彼等は各々多くの場合専門語で表現するに違いない。そう本ものの美術観賞家とも生れついていまい若者は、傍でそれ等テクニカル・タームの数々を耳に浚い込む。文学青年という熟語があれば、奈良の若僧中には、美術青年が
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