向いて、
「どう?」
と云った。
「私たちは、こういう目にも会うのよ」
 そして、自嘲するように笑おうとしたがみどりの唇が震えて、見る見る目に涙が湧き出して来た。頬っぺたを涙の粒がころがり落ちた。それを荒々しく手の甲で拭いて、みどりは鼻の頭をコンパクトでたたき始めた。
 わきに立って、その様子を見ているミサ子はみどりの気持が一々わかる。
「――出ちまいなさいよ!」
 ミサ子は思わず親身な声を出して云った。
「出されちまうわ、どうせ。堂本の奴ったら……畜生! ひとを……旗日だってったら、証拠を見せろだって手なんぞ出しやがって……チェッ!」
 帯までしめ直すと、みどりがやや気の鎮まった調子で、
「何か用だったの?」
ときいた。
「あなたもしかしたらこの次の左翼劇場見に行くかしらと思って――私のところに割引で切符を買うついでがあるから訊きに来たんです」
「まあ――ありがとう。それでわざわざよってくれたの?」
「近いもん」
「そりゃそうだけれど――私、うれしいわ。是非仲間へ入れて下さい! お金わたしておきましょうか?」
「切符とひきかえでいいわ」
「……じゃ、私ハンド・バッグとって来なけりゃ……ここいらで待ってて下さいな」
「――大丈夫なの?」
「平気さ」
 ミサ子が洗面所の前に立って待っている。みどりは堂本兄弟商会という字が廊下のこっちから見える程ひろくドアを開けっぱなしたまま、事務室内へ姿を消した。
        十五
 その二十日ほど前から、日本中の新聞が満蒙事変を喧しく報道して、号外の鈴の音がミサ子たちの働いている××○○会社の窓越しにまで聞えた。奉天を占領したとか、独立守備隊がどこそこへ進軍したとかいう記事が一号活字で新聞に出ても、××○○会社の若い平社員たちは一般に冷淡で、疑わしそうにジロジロひろげた新聞を読みながら、
「おい、社はこれでいくらぐらい儲ける魂胆なんだろうな」
などと云った。
「俺たちに何のかかわりあらんや! だ」
「〔六十二字伏字〕」
「〔六十七字伏字〕」
 ××○○会社の女事務員たちも、直接この事件については冷やかな態度で、格別みんなの話題にものぼらなかった。ぼんやりとではあるが、〔十五字伏字〕投資している資本家どもの利益になるばかりだと分って、新聞の空騒ぎに対して一般的な反感があった。
 昼休みのとき、濠端を四五人でぶらぶら歩いていたら 
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