どきに三つ四つ掌へ握りとって食べている。――
 最後にドアがあいて、
「|今日は《ボーナン・ターゴン》」
 肩のガッチリした中尾が入って来た。いつも通り、ゆっくりした動作でステッキをビラの下っている壁の隅にたてかけ、ポケットから水色の薄い教科書を出しながら、
「――なかなか御馳走ですナ」
 笑って教壇がわりの大机の前へ行った。
 立ち上って机から菓子屑をはらっていた菅が、
「失礼ですが、アノー、ここにとっときましたから」
と、わざわざ菓子の包みを挙げて見せたので、みんな笑った。
 今日は第六課だ。
「君の工場主はどんな人間か?」
「大ブルジョアだ。彼は赤い面をしている。然し赤い思想は大嫌いだ」
という文句が、クッキリ太い活字で教科書の中へ出て来たとき、ミサ子を入れて三十人ばかりの講習生は粗末な室の中で愉快そうにドッと笑い出し、窓の下を通っている江戸川行電車の響を一時消した。

        六

「真直《まっすぐ》おかえりですか?」
「ええ」
 エスペラントがすむとミサ子と坂田とは偶然並んで九段ビルを出た。まだ十時前で、散歩する人通りとレコードのジャズの響が歩道にあふれている。
 チカチカ眼をさす店頭の灯をはなれて天を見ると、小さく澄んだ月があった。そう気がついて見ると広いアスファルト車道のところは、どこか蒼んだ月の光がおびただしい街燈の輝きの底に閃めいている。
 ミサ子は、フェルト草履で歩きながら、
「柳さんにこの頃ちょいちょいお会いになりますか」
と坂田にきいた。
「ええ会います」
 それから、笑いを含んで、
「こないだは××商事でえらい目にあわれたそうですね」
 優しく顔を見られて、ミサ子はちょっとてれた。
「――ええ。……でも私あとから考えてもう一つ口惜しいことがふえたんです」
「どういうことです?」
「だってね、××商事の大沢が私をドナリつけたときね、私思わず知らず『私何かわるいことをしたんですか』って云っちゃったんですの。どうして『あなたが私をドナル権利はないでしょう!』って云ってやらなかったかと思うわ」
「ハハハハハ……でも大分みんなほかの女事務員のひと達もフンガイしたそうじゃないですか」
「ええ――でも駄目です。二日もたつとみんな忘れてしまってるらしいんですもの」
「――ひとつ、そんな会社、やめてやったらどうです?」
 坂田のおとなしそうな風采や地
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