すなり、あわてて片方の手をポケットから引き出した。
「なんだ!」
守衛と小柄なミサ子とを急《せわ》しく見くらべた。
「うち[#「うち」に傍点]のもんじゃないじゃないか」
肌理《きめ》のあらい縞ネクタイの顔が何とも云えず赤くなり、彼は紙をもったまんま二三歩その辺を動いた。
「どうして応接間へ御案内しなかったんだ!」
順子が、やっと今になって涎のたまったような声で云った。
「――私のところへ面会にいらしたんです」
「いや、実にどうも! あなたも一言おっしゃって下さればよかったんだが……どうも失礼しました」
守衛に、
「御案内して!」
と云った。
「いいんです」
そこに立ったまま、ミサ子は言葉短く順子に、
「いつがいい?」
と訊いた。順子は顔をいきなり逆撫でされたような表情のまんま、
「あさってで私はいいけど」
二人が話している間に、縞ネクタイはどっかへ行ってしまった。
「誰? あいつ」
「大沢っての、庶務よ」
「――じゃあさってね」
「ええ」
ミサ子は××商事の壮大な玄関を一段ずつ降りるとき、憤怒でまだ脚が震えるのを感じた。
四
胸糞がわるいとしか云いようのない心持だ。昼、地下室の食堂へ女事務員があつまったとき、ミサ子は今朝の経験を話した。
「ひどいわねエ、ひとを何だと思ってるんでしょう!」
「××商事の大沢ってば有名なのよ」
「一体、大会社の庶務だの守衛だのって、きっと巡査上りだとか刑事上りよ。馬鹿にしてるわ!」
一つむこうのテーブルでは給仕達が夢中になってラグビーの話をしながら飯をかっこんでいる。こっちのテーブルで、女事務員たちはめいめいの粗末な膳の上から首をつき出すようにし、一人一人そのとき口を利いてる仲間の顔を見ながら熱心に喋った。
××○○会社と云えば日本で指折りの大会社だが、その丸の内を圧すように聳え立つ建物で働いている人間の中には、はた[#「はた」に傍点]に知られない不満がある。
××○○会社の二十人近い女事務員はみんな少くとも女学校出だった。柳、ミサ子、その他三四人は専攻科や専門学校出だ。男の社員の場合は中学校出と専門学校出との間には区別があるのに、女事務員だけはそんな区別がなく十|束《ぱ》一からげだった。
女事務員は決して正社員にはなれない。どんなに永く勤めた揚句でも、女事務員に退職手当をくれるという規則は会
前へ
次へ
全37ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング