たちに示されなかった。与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」と戦争の野蛮に抗議した詩は、文学史の上にさえ全文を現わさなかった。日露戦争当時、晶子がこの作品を発表したことを憤って大町桂月が大抗議したことがあった。「変目伝」の作者広津柳浪は、当時の文学者としては西欧風の心理主義作家であったが、ある作品で売国奴・非国民と罵られてから、そういう日本の文化感覚に対して自分の書く文学は無いと、以来、絶筆してしまった。「外科室」をかいた鏡花がお化けの世界へ逃避してしまった動機にも日本の軍国主義文化の圧力があった。
一つの戦争ごとに日本の社会全体が国際的接触をまし、日本の民草も、自分たちが資本主義をこやすかいば[#「かいば」に傍点]としての蒼生ではなくて、人民であり、生産者であり、その勤労からつむぎ出される生産の利潤で支配権力を養っている勤労階級の男女であるという事実を知ってきたことは、やむを得ないことであった。日本の資本が地球の果から果へ市場をあさり、スウィスの村道に日本製の自転車を走らせるようにしたそのことと切りはなせない現象であった。そして、そういう日本資本のひろがりを国威発揚と表現する方が便宜だった。その方が人民の伝統的な国びいきの感情を刺戟し、満足させ、世界のどの文明国よりもやすい労働賃銀で一台の自転車にしろ生産して、より多い利潤率を保つことが出来やすかったから。資本主義の権力がいつも左翼を嫌悪する原因がここにある。いわゆる労働問題をおこしたり、日本の労働者の賃銀は世界水準から半奴隷的賃銀とされていること、婦人の労働がさらにその半分の賃銀しか得ていないからこそ、明治以来日本の繊維産業は世界市場で資本家のために利潤をあげてきているというような事実をあからさまに語り、現代の社会機構の見とり図を人民に与える社会主義者は、「赤」としてとりしまった。「赤」は支配者にとって必要とするより速く、広汎に具体的に人民層の社会的位置づけと勤労階級の実力の意味と展望とを目ざまさした。そして資本主義が発展すればするほど一方では勤労階級の自然的な社会自覚と国際連帯のテムポは早まってくることはさけがたい。だから、権力はいよいよ反資本主義的な社会要素を嫌悪する。まして、資本主義がファシズムの段階に入り、全く人民の犠牲そのものによって戦争を強行しようとするとき、まさに大量的に屠《ほふ》られようとする生けにえたる人民に、ファシズム戦争の本質を示そうとする者たちがあることなどはもってのほかである。「一億一心」「滅私奉公」「八紘一宇」のスローガンを、かりにも批判し分析する者は非国民とされ国賊とされ、赤とされた。そして、治安維持法と戦時特別取締法とが、大きい残虐な口をあいて、それらの人々を噛みくだいた。見せしめとして。人々の理性を、恐怖によって沈黙させるために。むかしの領主が、はりつけ[#「はりつけ」に傍点]を行ったとおり。『愛情はふる星の如く』の著者尾崎秀実の死はそのようにして強制された一つの例であった。
ところで、ここに、わたしたちが今日と明日との問題として深く自分にきいてみなければならない一つの心理がある。それは、今日『愛情はふる星の如く』をベスト・セラーズの一つとして推しているどっさりの読者が、ほんの三年前、日本が行いつつあったファシズムの戦争の本質をはっきりさせ、人民が大量に戦争へ狩り立てられることに対して、いくらかでも人間らしい抗争を示し、世界の反ファシズムの共同線につくべきだとした人々に対して果してどんな感情を抱いていただろう。戦争を野蛮な悲しいことだと思っている人でさえ、非国民という言葉におびやかされ、おそろしい治安維持法をよけようとして「そういう考えをもっている人からは」自分を別のものとした。それはどうしてだっただろう。
明治以来の日本の支配者が人民に植えつけた戦争観をそっくりそのままもっている大多数の人々は、相変らずそれをさけられない投機的な災難として楽観的にうけとった。弱い日本の資本主義がどんな危険な冒険に着手したかということを人民から覆うために国際的経済政治統計はもちろん、文化の国際的な交流さえ禁じた。左右にめかくしをかけられた人民は、戦争遂行という前方の外を見ようにも見られない状態におかれた。はじめは楽観から赤の理窟と一蹴して、国賊排撃に共感していた人々も、おいおい様子があやしくなって本能的な不安に襲われはじめた。ファシスト権力の狂奔はその時期に入って白熱した。人々の不安を国家存亡の危機という表現に結集させた。ひとことも、軍事的天皇制権力崩壊の危機とはいわなかった。正直な人々は、伝統的な感情にしたがって、国家が危急に瀕しているとき、まだとやかくいっている非国民! 理窟があるならまず協力して勝ってからいうべきであるという心持だった。これは、勤
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