労動員された女学生たちの稚い心にさえ何かのニュアンスで生きていた感情であった。
だから、一九四五年八月十五日、日本のファシズム権力が無条件降伏しポツダム宣言を受諾したのち、「聖戦」が帝国主義の侵略戦争であったといわれても、すぐそれを納得しかねる感情が大部分の人民の心にひそんでいる。その心持は今日も決して根絶していない。天皇の名において、これほどの犠牲を費した戦争が全部国際悪であり、人民の運命を破壊したものとは、いくら何でも信じきれない思いがある。悪い戦争ということになったのは、敗けた結果の批判ではないだろうか、という考えがある。同時に一方では、これまで満州ばかりを戦場にしていた日本人すべてが、はじめてわが顔をやく焔として近代武器による戦争の惨禍を実感した。そして、戦争のこわさを身にしみている。
この入りくんだ社会感情のいきさつこそが、今日、わたしたちを渦にまきこんでいる戦争挑発の肥沃な温床である。さもなければ国際裁判の公判廷で、東條英機がどうしてあのように卑劣ないいまわしで今日もなお戦争の責任を否定し、確信ありげにファシズムの宣伝をしたろう。このジェスチュアは東條自身にとって、一層世界の憎悪を集め、検事団の道義的憤怒をそそった。その見えすいた厚かましさを東條英機に可能だと信じさせただけつよいファシズムのかくれた動きが今日の日本の支配権力のかげにある証拠である。軍人としてさえ恥を知らないジェスチュアによって東條の人気を挽回することで、その努力の一歩前進させることを期待したファシズム勢力があることこそ、わたしたちの警戒しなければならない最大の危険である。
きょうのファシズムは、決して数年前までのようにむき出しに帝国主義の野望をいいあらわさない。日本でさえ、ファシズムは、日本の民主的発展のためという。生産復興のため、平和のため、と形容する。けれども、ここに一人の人があって、真面目に知人と知人との間の親睦を計ろうとするとき、一方の人に、他のものの誹謗をしてきかすだろうか。双方に何か不一致があるときは、具体的にその一致点を研究し、公平に見て、くらべて、一致点を発見して行こうとしないだろうか。一方のより金の力のつよい側に一方の悪口をいったりするのは、おべっかか、お追従として、日本の気質《かたぎ》が下劣と認めている態度である。
法学博士横田喜三郎氏が、『時論』五月号の評論
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