の底から憎む。その自己嫌悪を追いつめてゆくと、恐ろしいことだが、彼にも深い憎しみを感じずにいられない。鼻のわきに悪人づらの皺をよせ、
『到頭勝ちましたね。口惜しいが貴方の註文通り私は苦しんでいる。ハッハ』
と云いたい瞬間さえある。が、私は忽ち自分の心に戦慄し、人が来る気づかいなければ、跪いて迄心の浄まりを祈る。私は愛に充ちた心がすきだ。自分の心にほんの僅でも愛の滴がなければやって行かれない人間だ。――それだのに。彼は私の急処に毒をさした。彼は、私の、ひとに対して弁解ということの出来ない心持や自分の感情の胡魔化せないことを、最も男らしくないやり口で捕えたとさえ思う時がある。不愉快極る。彼も自分も同列にいやだ。」

「茶屋の女中が、偶然往来で私を見かけ、
『お暑いのに御参詣でございますか』
と愛素を云った。
 私が、可なり屡々彼の墓参にゆくのは、彼の冥福を祈る為ではない。全く反対だ。私は、欅の木の蔭に建っている墓標の下から、彼を呼び起そうとするのだ。何とか自分の心を片づけるきっかけを、彼の見えざる面を視つめて掴もうとし、彼の墓の前に或る時は時間を忘れて佇むのだ。
 生きているからには、私は生きているらしく生きたい。憎みでもよい。さっぱりしたい。エホバの声というのは、どんなものであったろう。威があって自らモウゼを跪ずかせた轟があったに違いない。私も其がききたい。声に打れて卒倒したい。恐怖からでもよい、号泣したい。そして、すっかり忘れたい。彼と云う者も、自分というものも!」
[#地付き]〔一九二四年九月〕



底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:「文芸春秋」
   1924(大正13)年9月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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