間にもまれて見ると、彼がどんなに内心びっくりし、臆病になり、完全にファッシズムに降参してしまっているかが文章の間からうかがわれる。
 賑やかで、何だか素晴しいようで、叫びや旗に満ちているのは満鉄付属地内だけだ。一度列車が、その外に出ると、そこにあるのは「無関心な、敵意も反抗もない真黒い無数の中国人」だ。
 ファッシズム文化の特色である独善的な民族主義の立場から、筆者は「中国人の平気さにはあきれる」などというが、さすがに、時々はそこから「抵抗のない、無限の抵抗を感ずるのだ。たしかに中国人(!)は底の知れない深さと底力をもっている」ことに圧迫をうける。しかし、その中国人、正しくは中国のプロレタリアート・農民に対して、筆者をこめての武力的侵害者の一団が、どういう関係にあるかということは、一言もふれられていない。そこまで問題を切りこむ作家の人間的省察も階級的責任感もない。
 それどころか、そもそも彼をして馬賊に面会させるに至った満蒙事件の、日本の帝国主義の経済的・政治的原因については一言の感想も説明も加えられていない。第三の満鉄讚美にいたっては、笑止千万である。この社会ファシストの代表は、満鉄が不明の活動を援助[#「不明の活動を援助」に傍点]しているというようなさかさまごとを臆面なく披瀝して軍事活動を合理化している。又「不幸な犠牲者群」として、朝鮮農民避難者に対し感傷的な辞句をならべている。「ただ無言のあいさつ」をする彼に対して、朝鮮農民が「たれ一人頭をあげるものも無かった」のは当然ではあるまいか。彼らは、筆者よりよく知っているのだ。たれが、朝鮮から彼らを満州の荒地へ追いこくったかを! そして、今またその満州へまでやって来ているのは何者であるかを、彼らは知っているのだ。
 このファッシズムの報告文学とならんで、『中央公論』に谷譲次の大衆読物、「第二次世界戦争発端」というものが載っている。
 谷譲次はこの文の終りに「本篇は目下の国際関係や軍事事情を完全に、そして、有意識的に無視したものである」から、少しでもそういう目で見られては困ると断り書をつけている。
 そんな断り書をつける位なら、漠然として、現実の影響力のない本文かというと、どうして。筆者がこの数万語で煽ろうとしている民族の対立は本能である、というにくむべき侵略主義の煽動、ソヴェト同盟についての非科学的なデマゴギー、「第二次世界戦争発端」という題名の仮面の下にたくみに満蒙事件の拡大の可能を暗示しているあたり、毒々しいものだ。――
 こうして今日のブルジョア文学のファッシズムへの奉仕あるいは屈従の断面は、僅か二冊の雑誌の中にさえまざまざと反映している。これまでブルジョア作家、労農派の社会民主主義作家たちが必死に守って来た作家としての個性の差異などというものは、めいめいがただどんな音色でそれぞれのファッショの歌をうたうかというだけの僅かな違いを示す以外、無力な意味ないものとなってしまった。

        提出したい問題
          ――徳永直の作品を読んで――

 ファッシズムは大衆の毎日の生活の中に、きわめて現実的なかたちをとって現れている。賃銀切下として、又はブルジョア産業合理化・労働強化、工場内の体育部の反動御用化として、あらわれている。
 大衆はそれをどう感じているか。どうそれと闘おうとしているか。
 徳永直は、「未組織工場」と「ファッショ」と二つに別れて発表された一つながりの小説の中で、この現実をプロレタリア作家の立場からとりあつかおうとしている。
 作者にとってなじみ深い印刷工場が舞台である。未組織の、ひどい労働強化が行われはじめた印刷工場にだんだん組織の手ののびてくるいきさつが書かれている。
 工場内で好きなものだけ集まってやる文芸同人雑誌のグループ=文化活動が、どんなプロレタリア解放運動のための役割を演じるものかということもとりあげられている。だが、ずっと二篇を一貫して読んで感じるのは、徳永直がこの小説で何か新しい試みをしようとしている、しかもそれが成功していないということである。
 第一、二篇の小説で徳永直は場面の九十九パーセントまでを印刷工場内部においている。これはドイツのプロレタリア作家ブレーデルが彼の傑作「NウントK機械工場」でもやった扱いかたである。
 プロレタリアートにとって工場での生活こそ中心である。そういう意味で徳永が印刷工場内の生活に重点をおいたということは理解される。
 問題は、その工場内の大衆のこまかい日常生活、動揺、闘争がどの程度までその時の資本主義、日本全体をゆるがしている一般的経済恐慌の具体的あらわれとして把握され描写されているか、という点にある。その工場内の闘争が、ひろくは世界プロレタリアートの革命的高揚の一環としての意味をつかんで、どうつかまれているかということが眼目だ。徳永が国際的なプロレタリア作家だとすれば、それはただ「太陽のない街」がドイツ語に訳されたということではない。一つの工場内の大衆の経験を世界プロレタリアートの立場から、日本における一つの確固たる具体性としてとりあげ得るところにある。
 二篇の小説で、徳永は具体性というものの評価をどこかで間違えた。この小説を読んで、近代企業としての一印刷工場の輪廓ははっきり浮かんで来ない。いわばその工場を周囲の人家と区切っているが、はっきり印象づけられないと同時に、外部の情勢が工場内部と交錯するものとしてちっともとらえられていない。書こうとして失敗したのではない。始めっから全然書かれようとしていない。工場のこまかい日々の事実が、せっぱつまった資本主義経済の恐慌をひしひしと思わせるような迫力では書かれていないのだ。
 それに徳永はこの小説で、これまでより一層すらすら読める書きぶりを心がけている。ひどくなめらかな調子に一日一日とうつる工場内の具体的な事実を次から次へと読ます。なるほどプロレタリア文学にはブルジョア文学が習慣づけて来たような作為的なヤマはいらない。然し、共通の利害で密集した大衆の力が現実に高まって、従って主題がある程度まで深化されたモメントというものはあるわけだろう。
 われわれは、こまかい具体的情景を書いて行かなければならない。だが、ただ職場でこういった、こんなことがあったと、現象だけを追って書くとすれば、それはほとんど場面だけはプロレタリア文学で方法は自然主義であるとさえいえる。表面にあらわれた個々の現象の底をつらぬく経済的政治的な要因がプロレタリアの立場からしっかりつかまえられ、あらゆる現象がいきいきと動く相互的関係の発展のうちにあつかわれてこそ、始めてプロレタリア文学としての強靭さと、弾力と、美とをもってくる。率直にいって、徳永直のこの二つの小説はしまり[#「しまり」に傍点]がない。主題を、きびしいプロレタリア的観点からそしゃく[#「そしゃく」に傍点]しぬいたという手ごわさがない。むしろ、文章に気をつかっているのが分る。すらすらと読める文章を書こうとして、土台をがっちり打ちこむことをおるすにし、その文章の上でさえ、大衆のかたまった力、熱、メリハリを再現することに失敗している。
 この正月、徳永直が何かで菊池寛その他ブルジョア作家のうまさということをいい、われわれもああいうものを書かねばならぬという意味をいっていた記憶がある。
 われわれは、たしかに、うまい、面白いものをどしどし書かなければならない。けれども、その面白さ、うまさが万が一にもブルジョア大衆作家の持物と同じ種類であったとしたらそれは問題外だ。
 われわれはこの経済恐慌による支配階級のファッショ化に対して、失敗の中から起き上り起き上り、勇ましく闘う未組織大衆を書くだろう。だがそれを書くプロレタリア作家自身の観点が未組織大衆の観点であるということは許されないのだ。[#地付き]〔一九三二年一月〕



底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年12月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「東京朝日新聞」
   1932(昭和7)年1月28〜31日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年1月16日作成
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