、私を強くするのだ」という気持を、この作者は語ろうとしている。本多氏の短評では、「私」を出して書いているので作品として成功しがたかったと云われていたと覚えているが「私」を出したことそれ自身に問題があるのではないと思う。「私」と作者の腹のなかとが実はちぐはぐで、「私」の内省と苦悩とが真に読者の肺腑をつく態の真摯な人間的情熱を欠いているところに、この作品の稀薄さが在るのである。
 人道主義的なセンチメンタリズムを蹴たおして、仮借なく現実を踏み越えて生きようとする気組も、作品として十分の落付いた肉づけ、客観的な描破力を伴わないと、結果としては案外に単純な神経性ヒロイズムやスリルの追求に堕す危険をもつのである。

        ガンジーの糸車

「文化の再生における信仰と科学」という亀井勝一郎氏の論文(文芸)と、『中央公論』にのっている小林秀雄氏の「文芸批評の行方」という論文とは、昨今この種の批評家といわれている人々の辿っている内的斜面の姿を二人|連弾《つれびき》で語っているところに、読者の注意をひくものがあった。
 この二つの論文は、執筆に当ってあらかじめ打合わせがされたのかどうかはもとより知らないが、思惟の傾向の本質では全く一体二面であるし、或る意味の組織的生産の印象を与えている。二人の筆者は、マルクスが「経済学批判序説」の終りで云っている文化に対する一句を同じく引用し、等しくその上に立場を求めて、この数年来世界文芸批評の分野に立ちあらわれている科学的批評の態度を否定している。古典の生れた環境の解明だけでは新しく文化を再生せしめ、「自己を変貌せしめる」役には立たず、それを憧れ、信仰し、永遠の青春として味到してはじめて血肉となるのであるから、例えば「日本的なるもの」の解釈に当って、その問題の発生を社会的な原因の面からだけ見るような一部の批評家、戸坂潤、岡邦雄の如きは反動であるという意見なのである。
 二つの論文が、永遠の青春とか変貌とかいう用語や非難しようとする対象に於てまで完全に呼応した一致を保って批評の科学性を否定しているところは、読者に何を暗示するであろうか?
 もし、両者の間に些かの相違を見出そうとするならば、小林氏が「ごく常識的に考えても世間には芸術の仕事と科学の仕事との対立が見られる」各自その分野を守って仕事しているのに、或る批評家はその間をどっちつかずにい
前へ 次へ
全8ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング