ためには、その第一歩として団体の内部組織そのものの封建性を破壊しなければならない。そのことがすでに「文戦」にとって一つの革命的闘争である。
「文戦」内の理論的対立は、この点でも幹部の自己批判の欠如を示した。頭と尻尾に二つ頭をもった蛇では、どっちへ動くこともできない。腐るだけである。そこで、今度の左翼十一名の脱退となった。
一九二七年の末、労農芸術連盟から「前衛」が分裂し、のち「プロレタリア芸術」と合体して全日本無産者芸術連盟(NAPF)を結成した。
それから三年余だ。自然発生的に日本プロレタリア文学運動の先行的任務を負った「文戦」の作家たちは、ロマンチシズム、未組織な個人的センチメンタリズム、政治的行動理論の不決定さで右や左へ揺れながら、それでもある水準に達した技術で、黎明期のプロレタリア文学活動に重大な役割をはたした。
「ナップ」の作家たちは、その頃まだ技術的には若かった。階級闘争の一翼としての芸術活動の正当な任務を理解するために絶えず自己批判し、また「文戦」と論争をくりかえした。
プロレタリア・農民大衆は一年一年と、闘争の実力とブルジョア文化に対する階級的プロレタリアの文化水準を高めてきた。「ナップ」の作家もそれにつれてやっぱり、一年一年と育った。技術的に、理論的に、作品行動の実践で育った。そして、今日ほんとの意味で革命的なプロレタリア作家は、「ナップ」と「ナップ」を支持する大衆の中から現れつつある。
ブルジョア文学が、ブルジョア社会機構の全般的行きづまりにつれて、衰弱し、へばって、だんだん反動化していることは、もう誰の目にもはっきり映っている。
プロレタリア芸術こそ新興する階級の芸術だというのは、これもわかりきった事実としてわれわれに示されている。しかし、あるとき読者はこんなことを考えはしなかったか?
プロレタリア文学といったって、「文芸戦線」もあれば「ナップ」もある。一方は、片方が正しいプロレタリアの闘争の道から脱れてるという。だが、反対にその一方のいい分をきいて見ろ、こんどは、正しいはずだった方が、ちり骨灰だ! 一体、じゃどっちが正しいプロレタリア芸術創造に向っているのだ? 「客観的事実」によってわれわれに見せてくれ、と。――
読者よ。
今こそ、その時が来た。「ナップ」と「文戦」とは、社会主義社会招来のために闘うプロレタリア・農民大衆の文化
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