したのである。
以上の瞥見は、私たちに今日、何を教えているであろうか。現実に即した観察は、批判精神というものが決して抽象架空に存在し得るものではなくて、それどころか実に犇々《ひしひし》と歴史のなかに息づき、生成し、変貌さえも辞せないものであることを理解させると思う。批判精神は情緒感性と切りはなされて存在し得るものどころか、人間の精神活動の諸要素の極めて綜合されたものにほかならないことも肯ける。
文学精神を云い更えれば批判精神である、と云われるが、この場合批判精神の実体を、文学以前の社会的現実を明瞭確実に把握、判断する社会的見地或は社会を見る眼というだけの内容づけに止るべきではなかろうと思う。文学との現実なかかわり合いに於て見られるとき、批判の精神は一人の作家の内面に発動してその作家が現実社会の下で置かれている一定の関係を通じて与えられた多種多様な社会的現実に対して客観的な評価を与えるばかりではなく、その主題が芸術化されてゆく創作の過程で、作品の対象と創作方法との間にあるべき必然の繋がりをも、吟味してゆく精神でなければならない。
嘗て純文学は、対象を自我において、従って読者というものは作者の創作過程の内部へ及ぼす有機的な関係をもたなかった。自我が喪失されるとともに純文学は創作の内面的対象としての読者大衆ではなく、外面的な転身の足がかりとして読者を意識し、大衆生活を描くに不可欠な創作方法の探求はぬきに、作者の主観で、自己の作品の購読者としての読者を意識した。そのことで、具体的な人間群としての大衆は作品の中に生かされていないようになったとともに、自己の作品の世界に対する作家の人間的社会的な責任というものも無視されたものとなって来てしまっている。
文学に人間が再生しなければならないとは昨今頻りにきく要求である。明日に向って人間の自己は、より成長し、より責任ある社会的な性格をもって文学に甦らなければならないのであるが、その目安をもって私たちが自己の再発見をなし得るための客観的な力として、現実に在るのは、批判の精神をおいて他に無い。
文学がどんなに社会的のものになろうとも、創作の現実ではめいめい一人一人の人間の極めて具体的な綜合的な社会意識の内部から作品が生まれるものである限り、益々批判の精神の役割は重大になって来るばかりなのである。批判の精神の無私な努力だけが、世紀
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