い方でつかわれている。勘という言葉は、いき[#「いき」に傍点]やさび[#「さび」に傍点]より遙かに用途も広汎で、現代の日常性に富んでいるのである。
ごく日本的な、この勘というものは、どんな歴史のいきさつの中から今日に伝わっているのだろう。由来、剣道、能楽などの秘伝は、最後は直感、綜合的なこの勘で、悟入し得る手がかりを様々の抽象的な云いまわしや象徴的な比喩で書きあらわしたものと思える。ところで、剣道の流派というものも、能楽も昔は一子相伝的で、特に刀鍛冶など、急所である湯加減を見ようと手など入れればその手を斬り落される程のものであったと云われている。歴史が今日の私達に教えているところに従えば、最も封建的な形でのギルドが、一つの職業における親方と弟子との関係の中に生んだものが、勘の土台をなしているのである。それは当然当時の製作工程の未熟、原始性をも語っている。
文学創作の過程は複雑で、個性的であるけれども、主観的に所謂たたき込んだ勘にたよるばかりで、作家が常に必ずしも現実の核心にふれて描き得るかどうかということには大きい疑問があると思う。
勘は天来のものではなくて、人間の努力、反復、鍛錬の結果が蓄積して、複合的な直覚が特定の範囲で発動し、肉体の動きまでを支配する、そういう意志的な要素を底流とした心理であるから、勘の内容は、反復され、努力されることの質に応じて具体的に相異があるし、変化もする。全く伝統的な勘という表現でさえ、抽象的にはあり得ないのである。例えば平山蘆江氏が自身の境地のなかで身につけている勘、それとは違うであろう菊池寛氏の勘。更に小林多喜二が持っていた勘は、前者が二様であっても大別一系列の中に包括し得る性質であるに反して、その本質を異にしていた。これは、誰にとっても極めて理解しやすい実例であると思う。
今日ほど、文学の動揺が甚しかったことはなかった。文学に思想性を求める声は、どんなに今日の文学が思想を喪失し、剥奪された事情におかれているかを、あますところなく語っている。思想的な規準は失われたと一応思い込まれ、自身にそう云いきかせることによって、今日の人間の知性や良心に加えられている重圧に対する溌剌とした対抗力の眠りをさますのをおそれている形である。そして、多くの作家たちは、益々多くの人間的又は作家的な勘にたよってものを云うことが殖えている。自分の勘に対する自信の弱さ強さが、押しのつよさ弱さにかかって来て、ひいては、云う声の高さ低さにまで及んでいるようでさえある。
然し、ここには沢山の危険がある。現代は、自分の持っている勘と自覚されるものを、客観的に、歴史性の上にとり出して調べて見ようとする、その必要に心付く勘というものが、より重大な人間的役割をもっているのではなかろうか。保田氏は明かに自身の勘にたよって、昨今の諸文章を執筆しておられるのであろう。が、今日の現実の日本には、その勘の働き工合に、ピンと来る別種の勘が、根強く存在しているのである。勘の新たなる素質が黙々と蓄積されつつあるのである。
[#地付き]〔一九三七年三月〕
底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
1980(昭和55)年1月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
1951(昭和26)年7月発行
初出:「都新聞」
1937(昭和12)年3月8〜11日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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