人生的な意味では既に現代らしくディフォーメイションしたものとしてあらわれている「嫌な奴」の存在を、文学として、即ちそれによって現実をかえりうつべき武器としてのディフォーメイションに迄たかめてゆくためには、大変つよい、明徹な判断の力とその客観的なよりどころがそれ等の作家たちに必要とされるわけであろうと思う。さもなければ、それらの作家たちは現実の一部として自分にも内在する人生の歴史的な歪曲の姿とそれなりに馴れ合ってしまうしかしかたがないことになって来るのである。

「嫌な奴」を作家が観照の圏外に追放しただけで文学の生命が純血に保たれないのは勿論であるし、文学が現実を隈なくとらえてゆく意味でのリアリティを失ってゆくのも実際であるが、小説のなかにただそういう性格が実際生活の中でと同様に跋扈《ばっこ》するという現象と、時代と社会がディフォームしたものとして露呈している現実を典型として文学のディフォーメイションの裡に批判し再現してゆくということとは全く別なのである。バルザックのリアリズムは、この意味でディフォームされた素材を、それをこそわが文学の世界として渉猟しているのであるが、甚だ興味あることは、彼自身時代のディフォーメイションを内在物としてもちつつ社会関係の中では、そのことからの損傷の被害者の立場にありその流血的な日夜から彼の文学は遂に馴れ合い以上のものとして再現して来ている。
 今日、日本の小説に、自身の身内をも流れる同質のものを感じつつ「嫌な奴」を登場させているという一部の作家たちは、以上のような関係では、外的・内的な「嫌な奴」と作家としての自己との間にどんな関係を自覚しているのであろうか。彼等が「嫌な奴」を粉砕していないという事実の人生的・文学的機微は案外にもこのあたりに潜んでいるのではなかろうか。「いま『嫌な奴』と取組みはじめた作家たちが、もし『嫌な奴』に負けてしまったなら、どのような事が起るだろう」と我知らず洩されている片岡氏の危懼《きく》は、とりも直さず文学の現実としてその危懼をまねく何かの必然が今日に見えているからこそであろうと思える。刻々の歴史に対する客観的な眼力を喪えば、文学上のディフォーメイションはディフォームした人生の局面の屈伏した使用人ともなるのであると思う。
[#地付き]〔一九四〇年五月〕



底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「帝国大学新聞」
   1940(昭和15)年5月27日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
2005年11月8日修正
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