ては、独特な花を開かざるを得なかった。その精神史においてまだ一度も人間らしい人間としての自覚、活動の歓喜を味ったことのない日本の知識人の生活感情の裡には、綿々として尽きず、人間性において成り成らんとする意欲が蠢《うごめ》いている。日本の自然主義作家が、一度は確立された自我に向って振う痛烈な自己の鞭打の精神力をもち得ず、低く日常茶飯事を観照し写実的作用を営むところに定着してしまった(田山花袋)のは、理由ないことではなかった。
明治四十年から十年間に亙る旺盛な文学活動において、夏目漱石は日本文学の上に初めて、自我を批判する目をもった自我の姿を提出した。人間性のひき上げてとしての人間性観察者・批判者としてのインテリゲンツィアの意義と任務とを、漱石は作品の裡に強烈に描き出した。明治四十一年首相西園寺公望が、文士を招待して雨声会を催した時、漱石はその招待を「時鳥厠なかばに出かねたり」の一句を送って出席しなかった。漱石は日本の伝統である官尊民卑が文学の領域にまで浸潤することを快く思わなかったのであろう。感想に、文学の事がききたいのならばそのことではこちらが師匠である、そちらから出向いてしかるべし、というような意味を洩している。漱石の主観の裡では、一箇の人間として宰相と同等である自我、専門とする文学の領域においてはその分野における権威者として自己を主張した気概が窺《うかが》われるのである。
然しながら、漱石が、人間性のより高さへの批判をもって観察した現実の自我は、社会の諸制約によって歪み、穢され、細分され、自我と利己との分別をさえ弁えぬ我と我との確執、紛糾であった。彼が晩年「明暗」を執筆していた頃の日記には、この偉大な芸術家の内心をさえむしばまずにいなかった日本文化の矛盾が露出しており、殆ど肌に粟を生ぜしめるものがある。漱石は、ブルジョア・リアリストとして自分の最高の到達点で「明暗」の驚くべき冷静、緻密な描写を運びつつ、小説を書いていると塵っぽくてやり切れない、だから詩をつくると云い、日に数首ずつの漢詩をつくっている。私に漢詩を味う力はないが、卒読したところ、それらの詩は、どれも所謂仙境に遊ぶ的境地を詠ったものが多い。白雲飛ぶところ、鶴舞い遊ぶところに、漱石は、「明暗」から日に一度ずつ逃げて行っている。もし漱石が「明暗」完結後まで生きていることが出来たとしたら、この恐ろしき矛盾、自我の分裂は、果して彼をどのように生かし得たであろうか。
芥川龍之介は、ブルジョア文学の背骨の中に漱石がのこして行った宿題を、その生涯で解いた作家であった。社会的制約の間に切っぱつまった自我の姿を凝視しつつ、彼は自己を破壊することでそれを主張したのであった。
プロレタリア文学の擡頭は、日本の文学に新しい局面を開き、新たな芸術の価値と質的展開の可能を示したのであったが、一九三二年以後の日本の社会事情は、最も瞠目的な方法と過程で、その退潮を余儀なくさせた。作家として、自己の帰趨に迷ったブルジョア作家の一部は、この退潮を目撃して、文芸復興の呼び声を高く挙げ、爾来この二三年間は古典の研究、リアリズムの問題、純粋小説の提唱、能動的・行動的精神の翹望が次々に叫ばれつづけて来たのであるが、文学の実際の復興は困難にめぐりあった。
プロレタリア文学運動を退潮せしめた力は、社会情勢の有機体の内でやはりブルジョア文学をも萎縮させざるを得ない実際となった。一般人の生活水準の低下と社会的自主性の低減は、日本のブルジョア文学の独特な伝統が、ヨーロッパのイッヒ・ロマンとはまた異った歴史性をもつ私小説について自我の啓発、探求をもとめているにかかわらず、遂に芸術の中に語るに足るだけの自我の内容と発動とを、作家生活の実質から喪失させてしまっているのであった。
『文学界』の座談会で指摘されている作品から活きかたを学ぶ読者が減ったということは、とりも直さず、作家自身、示すべき人間的生き方を社会的現実の上に失ってしまっている事実を語っているのである。貧困が文化面に迄及んでいる一般人は、身に迫った生活の苦痛の中で、活きかたを求めこそすれ、こなごなのようにされ、生気を失っている自我がああでは如何、こうでは如何と、自意識の鏡にうつして身をよじる文学の眺めに、ついて行けないのは当然ではないであろうか。文壇は、この冷淡さにおどろかされ、新人を新人をと求め、賞を氾濫させている。文学青年が益々、いかに書くかを見習おうとして、一部の作家と作品の周囲に集るのもまた避け難いことと思える。
近代日本のブルジョア文学において、常に綯《な》いまぜられて来た退嬰的な妥協的な封建的戯作者風の残りものとの関係においては、進歩的面のバトンの運び手であった自我の探求は今日、未開のまま外ならぬ生みの親のブルジョア文学者の手で※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》られるというめぐり合わせに置かれている如く見える。最も文壇的勘の達した評論家小林秀雄氏などが彼をして存在させている文学青年を否認しようとしているのは、何故であろう。ブルジョア文壇の自解作用が、急速に進みつつあることが感じられるのである。
文学青年と一括して呼ばれる若い時代の社会的・経済的支持の力は、彼等の苦しく逼迫する現実生活の必然から、従来の所謂文壇人の生活を負担しがたくなって来ている。このことは、文芸家協会の納金低下にも現れ、修飾のない実際問題として一部の作家のダンピング的執筆を惹き起している。新進作家の経済的困難は誰でも大っぴらに語る状態である。荒木巍氏が、最近出版された小説集の印税代りに、出版|書肆《しょし》からスキー道具一式を貰い、「滑れ銀嶺、歓喜をのせて」雪上出版記念会を行ったというエピソードは、朗らかなようではあるが、私に一つのことを想い起させた。それは、明治二十何年という時代、三宅花圃、田沢稲舟などという婦人が、短篇小説を当時の文芸倶楽部にのせた時、出版書店は御礼として半衿一かけずつを呈上したということである。
現在、壮年になっている作家たちが、他の職業にたずさわる同年輩の男の社会的・経済的地位を観察した時、作家生活の現実は、彼の内心を暖くするであろうか。冷たくするであろうか。
今日の社会的情勢は、日本のブルジョア作家の大部分がそこに属している小市民、中農の経済事情を極端に劣悪にしている一方、従来の文学の立前においては精神の牙城を喪っている。荒涼たる心持で周囲を眺め、大人の文学をつくり、その大人の文学によって現実社会で官吏、実業家、軍人等によって占められている支配的上層部に伍そうとしたとして、それは容易なことであるだろうか。
フランスではユーゴーが宰相であり、ドイツではゲーテが宰相であり、イギリスで十八世紀文学を指導した文学者はそれぞれ顕職にあったという例は、今日までのところわが日本の社会では再現し難い。日本の近代社会の成り立ち、官製文明国としての特質が、日本的な現実性においてそうあらしめないであろう。
若し、社会的条件がそれを可能ならしめるならば、例えば犬養健氏、水上瀧太郎氏等の文学が、今日在るのとは全然変ったものとして生れたであろう。単に作家的才能云々の理由ではないのである。
私が、一部の読者を退屈させながら、この文章の前半に長々しく明治文学の略図を描いたのも、ここのところの歴史的の姿をもう一度、読者の判断の前に供したかったからである。
文学の仕事、文学者の任務が、大衆の指導にあるという自覚と、そのことで大衆より経済的にも優位におかるべき筈であるという、芸術至上的な自己評価の習慣は、ブルジョア文学が実際は大衆の生活感情とのつながりを失っても猶作家の心に残像としてのこっていることがあり得る。読者としての大衆の文化水準の低さのみがこの場合目につけられ、作家そのものの実質を低下させている社会的母胎の質の問題が見落された時、一部の作家自身が云うように「抽象的な情熱」が喚《よ》び迎えられることになるのである。
私は、今日万葉、王朝の精神を唱えている一部の作家が、我からそれを「抽象的な情熱」と云っていることを、実に意味ふかく思う。明治、大正のブルジョア文学の潮流においては、仮にそれはどのように孤立的、短期、且つ不成功であったとしても、一度も「抽象的な情熱」という自覚をもって云われたものはなかった。二葉亭の一生にしろ、北村透谷の生涯にしろ、樗牛、漱石、芥川、すべてこれらの人々の情熱は、生活的であり具体的であった。藤村、晶子にしろロマンチシズム時代の空想をさえ生活実体として具体的に感覚し得ただけ生活力と若々しさをもっていた。
「抽象的な情熱」という十分の自覚に立って日本の文学古典のうち最も生活と芸術とが融合一致していた万葉時代の、生命力に溢れた芸術の精神を唱えるという人々の矛盾を、私たちは何と解釈すべきであろうか。万葉とは対蹠的な罪業や来世の観念に貫かれた王朝の精神というものを、万葉とともに、抽象的な情熱として愛するということは、殆ど理解しがたい迄に困難である。
このように相反する時代精神を享受する情熱が、何故に芭蕉の芸術的精神を肯けないのであろう。抽象性は、何故に芭蕉に面して透明を欠き、具体的となるのであろうか。
芭蕉の作物には源氏物語のような書きだしがないからであろうか。或は林氏のように座談会へ袴を穿いて出席することによって自分が文学をするサムライであることを証言しないからであろうか。または、芭蕉の芸術家としての生きかたは、当時の時代的環境によって、鬱屈的であり、浪々的、捨て身すぎて、今日の作家生活の実際にふさわしくないからでもあろうか。
万葉の芸術家たちの心を、私は自分の粗雑な理解ながら親しみぶかく感じて読んで来た。万葉の芸術には、高貴な方の作品もあり、奴隷的な防人の悲歌もある。万葉の時代は、日本の民族形成の過程であり、奴隷経済の時代であり物々交換時代であり、現実に今日私たちの生きる社会の機構とくらぶべくもない。万葉の精神を唱える作家自らがそれを抽象的情熱と、認めざるを得ない理由もうなずけるのである。
『読売新聞』に、この一月座談会記事が連載されていた間の或る日「てんぼうだい」に一読者よりとしての投書でのせられていた。「前略、万葉古義を拵えることも勿論立派な仕事と思いますが、而し民衆はそういう(文化的な)ものよりも、もっと生活に喰いこんだものを求めているのではないでしょうか。略」
ぼんやりした表現で書かれていたけれども、私の印象にのこった。『文学界』の座談会で小林秀雄氏は「やっぱりでたらめでもいいから嗾《け》しかける者がなきゃだめだ。(中略)やっぱり民衆のお尻をくすぐらなきゃ駄目だ。いまお尻をくすぐるような批評家が現われなけりゃ駄目だ」と力説しておられるが、民衆をどのような方面へ嗾しかけ、尻をくすぐってどうしようと云うのであろうか。
山本有三氏は或る意味で大衆に愛読されている作家である。しかしそれは、志賀暁子の公判に検事が「女の一生」にふれたからではなくて、山本氏が氏としての誠意と研究とをもってこの社会に対している真実さが、読者とこの作者とを繋《つな》いでいるからである。スタイルだけのことではない。
作家も民衆の一人として、知らしむべからず風な境遇におかれていることについて、林氏もふれている。氏は、そのことで益々大人になること、知る境遇になりたいことを刺戟されている模様である。同じような点に、島木健作氏もふれている。島木氏は、今日の作家のそのような姿こそ、そのままで却って積極的なものを語る場合がないとは云えないと云っている。唐人お吉が自分の惨めな生存そのもので当時の社会に抗議しているように、作家の惨めな姿そのものが抗議であると。
だが、このことも、自身の置かれている境遇を自覚し、抗議として生存している明瞭な意欲と、それに応じた動きがあって客観的になりたつことであると思う。
日本の文学は明らかに一つの画期に来ているのであるが、「抽象的情熱」によって日本的なものを探求しつつある作家たちが、生活の必要
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