そんな虚無性の一方でイデオロギーとして知識の形で、頭に入っているものだけを自分の階級性だと思ったりしているところからは、生きた実感で統一された文学が生れるわけもない。
 日本の新しい文学が生れてくるためには、おびただしい困難がある。商業ジャーナリズムの害悪はもちろんである。しかし、もっと深いところでこんにち認められる危険は、資本主義社会のいわゆる文化、娯楽が、きわめて知覚的な刺戟の連続として歌謡・バレー、あてものなどで組立てられ、プログラムづけられているということである。労働条件のわるさ――たえざる疲労と心労、生活不安と、からみあって来ているこの娯楽の知覚的な方向へのそらせかたは、よほど警戒されなければならない。働いて、くたびれた時間の全部は、じっと考えさせず、たえず音や色や動きでまぎらしてしまおうとする娯楽の知覚化――「二十の扉」や「一分ゲーム」や「私は誰でしょう」などは、瞬間瞬間をこまぎれにしてちりぢりばらばらのトピックに注意を集中させるようにできている。全く考えに沈潜する習慣を失った、散漫で、お喋りな人間――自分に何も分っていないということについて、全く気づいていない人間をつくる
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