れからの文学のことばのなかには漱石も知らず、志賀直哉の生活と文学にもなく、「細雪」にもないいろいろの社会科学のことばや、科学のことばが、こなれてはいって来るようにもなるだろう。わたしたちの生活の現実で社会の関係についての常識や、人民的国際関係についての常識はどんどんひろがるのだから。

 きょうに生きるものとして、社会の自分について感じる実感の問題にもどる。
 さっき「女の一生」からひき出された話としてふれた今日の婦人の社会生活、家庭生活にある諸問題の例は、工場に働く婦人労働者の場合、一層負担の重い苦しいものになる。きょうでさえ日本の婦人労働者の賃銀は平均して男子の六〇パーセントに達していない。やすい労働力としての婦人の労働の力は、この節の合理化によって益々搾取の対象となっている。組合内家庭内の封建的な習慣もまだなくなっていない。
 だから、かりに職場で、進んだ労働者としての経験を通じて愛し合うようになり、結婚しようとする若いひとくみの男女が互の間では、随分進歩した協力的な生活設計を考えられるとして、二人ともが失業した場合、また結婚しても、どちらかがあいての親たちの生活扶助をつづけなければならないようなとき、とくに女の側にこの条件があるとき、事情ははなはだいりこんでくる。
 このような場合の苦しいいきさつを、徳永直の「はたらく人々」はアサという植字の婦人労働者を女主人公として、こくめいに描きだしている。いまから十年前にかかれたこの小説を、きょうの印刷工場に働いている若い婦人労働者、アサに似たような家庭条件でこれから結婚しようとしている若い婦人労働者がいてよんだとしたら、そのひとはどんな感想にうたれるだろう。
 モーパッサンの「女の一生」にはっきり古典を感じた彼女は、アサのような「女の一生」を自分の明日にうけとりたいと思わないだろうと思う。この小説に描かれている山岸アサが生きたよりもっと、ちがった生活をもちたいと切実にねがうにつれ、彼と彼女とは、組合の力が現実にどこまで労働者の生活を改善しているか、ということについても考えずにいられないだろう。いつになったら日本の労働者が、養老年金のとれる社会をつくるだろうと思わずにいられまい。そしてアサの時代は婦人労働者が未組織だったのだということを考え、同時に、現在は組織されていてもまだめいめいの個人生活の苦痛は、個人的な解決にまかされている部面の余り多いことにくらべて、はるかに社会保障の大きい社会主義の社会を思いくらべずにいられないだろう。遠いよその土地の美化された物語としてではなく、このごたついた、でこぼこのひどい、けなげなひとびとの足もつまずきやすい障害だらけの日本の中で、じりりじりりと推しまわされてゆかなければならない、人民の民主主義にたつ社会へ新しいまわり舞台。その仕組みについて考えるとき、彼女は若々しい人生への意欲と愛とにもえればもえるほど、ほかならない自身の肩に、しっかりうけとめて推してゆかなければならない、労働者階級の勝利への心棒があることを感じるだろう。けなげで忍耐づよいアサの知らなかった生活と文学の実感がここにある、新しい歌がある。
 文学の仕事をしてゆこうとしている人は、実感を尊重して、文学のこと以外に多くのことを学ばなければならないということは、多くの人によって云われている。いつか佐多稲子が小説を書く人の心がまえとして、意識というと階級意識と限って考えられる傾きがあるけれども、階級についての意識ばかりでなく、生活のうちにふれてくるすべてのことに意識をもたなければならないという味わいの深い言葉を書いているのを読んだことがある。実感の豊かで、強い内容は、稲子さんが云っているとおり、あらゆる場合めざめている意識をとおしてその人のうちにつみかさねられてゆく。
 意識するということは、生理的に知覚すること――ただある音がきこえた、ただあることがみえた、そして、きこえた音、見えたものごとから人間の神経がそれに応じる一定の反射作用をおこした、ということではない。意識するということは、知覚されたものの質や意味までをこめて生活感情の中に積極的にくみとるということである。そして心というものは、宙に浮いたものでなくて、かならずその人の生活とともにあるものだ。生活は社会関係の中にその人がどんな立場でおいこまれているかということに基礎をおいているから、したがって生活感情としての美の意識までも自らちがいをもってくる。知覚されたものに対しての評価と判断がある。耳にこころよいメロディーというものも、その人の全生活の内容、個々の生活の営まれている方向とのつながりをもっている。だからどんな音でもきこえて来る音に対しては受け身で、いわゆる無意識にきき流し、どんな習俗でもそれがはやりなら無意識にまねをする。
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