ない」時代「而も精力が充満して活動の表現が欲しいような場合」の「無理想主義の十八世紀を最下等の側面より代表するものである」として、とりあげている。ロビンソン・クルーソーの「詩的に下等」なる所以は、これが「ただ労働の小説である」そして「どの頁をあけて見ても汗の匂いがする。しかも紋切型には道徳的である」からとして、それ以上はその面を切り込まず、作品を構成の点と文章の点から解剖して、遂にこの作品がどんなに非芸術的なものであるかという結論に達している。漱石はロックやヒュームの哲学をも、当時のロンドン生活に見落せない珈琲店の有様とともにふれているのであるが、抑々《そもそも》十八世紀のイギリス文学には何故ロビンソン風の漂流物語が多く出たのか、そのことと旺盛な植民事業の発展とは当時の一般風俗、心理の中でどんな関係をもっていたかというような最も機微にふれた点には探りを入れていない。何故また作者はロビンソンをたった一人孤島に上陸させたかったのであろうか。何故十八世紀の作者ディフォーは特に、漂着して元もっていたもの殆ど総てを失ったロビンソンを、生活の歴史の出発点として描きたかったのであろうか。それらのことは、当時の新しい事情におかれたイギリス社会の心理、風俗の中でどういう必然をもっていたのだろうか。今日の読者にとって最も注意をひかれるそれ等の箇所については分析の力を有《も》たぬ、而も堂々たる文学評論が漱石によって明治四十二年に書かれたこと、そしてこの大文学者が生涯を通じて非文化的非人格的存在と見た社会層の一端には常に「車馬丁」がおかれ、他の一端には「成金」がおかれていたことも、最も複雑な意味で当時の日本風俗の一断面を語っていると云えるのである。
 今日の日本の諸風俗のありようというものは、つい先頃までは風俗描写の小説をもってリアリズムの文豪と称した一部の作家たちをも瞠若たらしめる紛糾ぶりである。その紛糾も、社会生活の諸要素が、ゆたかな雨とゆたかな日光とにぬくめられて、一時にその芽立ちに勢立つ緑濃き眺めと云うよりは、寧ろ、もっと力学的な或はシーソー風なもので、風俗の上に現れるあの面は、関係として見ると、その面の裏であると云えるように思う。
 日本が全体としておかれている国際的な事情と、積極的に新しい歴史の時代に立とうとしている関係上、同じ躍進の状態と云っても明治時代とは全然ちがっている。
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