びれたさを[#「さを」に傍点]は、照れた、ばつの悪い風でのっそり出て行った。
「何だよ返事もしないでさ――八番、いいね」
「はあ」
 百代はさを[#「さを」に傍点]のその様子がおかしく、くすりとふき出しながら踵でくるりと一廻りした。が強い好奇心が忽ち彼女を静にさせた。春外套を片腕に軽くかけた鈴木に違いない男と湯上りのような顔をした体躯の太ったエルマンのような西洋人が並んで、彼女の隠れているすぐ頭の上の階子を登り始めた。百代は跫音が遠くなるにつれそろそろ板敷の方へ出て、後姿を見上げた。登りきった踊場のところで、母親がひょいと振返って下にいる百代を見下した。百代は、思わず瞬きを止め、睨まれるのを予期した。母親は、然し、変によそゆきな顔をしたまま何も見なかったようにすまして廊下を曲ってしまった。

「――どうも失礼致しました。では明後日お待ち致しておりますから」
「左様なら」
「さよなら」
 靴音が入り混って敷石へ去るのを待ちかね、百代は玄関へとび出した。
「かあさん、今の、シネマの鈴木でしょう?」
「知ってるの? お前」
「だって、いつも指揮してるんですもの。――何だって? あの西洋人何なの? 家へ来るの?」
「そうですよ」
 百代ばかりでなく、両親も幾分亢奮しているらしかった。前後して茶の間へ入ると、父親の為吉は、先ず煙管に煙草をつめ、黙って一服ふかした。
「ね、なあによあの西洋人」
「――今度、シネマへ出る歌うたいだってさ。今まで横浜にいたんだそうだが、神田まで通うのに厄介だから此方へ宿をとりたいんだってさ」
「本当?」
 百代は、
「素敵!」
と手を叩いて坐ったまま踊るようにはね上った。
「私知ってるわよ、それなら」
「知ってる筈ないじゃないか、昨日横浜から来たばっかりだってのに」
「違うわ、読んだのよ、ほら、今度の代り目っから専門家の歌をきかせるって大きく予告してあったじゃあないの」
 母親は余り身にしめず、
「そうだっけか」
と答えた。
「そうだっけかって、かあさん、あんなに伊太利声楽の隠れたる天才って書いてあったじゃあないの」
「――ねえ、あなた――」
 いねは、百代の方はいい加減にして良人に云った。
「――今度の人は大丈夫なんでしょうね」
「何がよ」
「…………西洋人なんぞ、この商売永年やってても始めてだから――先の奥さんみたいなことでもあった日にゃ全く馬
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