父の手帳
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)演《や》った
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)どてら[#「どてら」に傍点]を着た父が
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父は建築家の中でも、書斎で勉強するたちの人でなく、人間の住む家を、様々なその必要の条件にしたがって、事務的に、家族的に、趣味的に建ててゆくという現実の進行を愛したたちでした。そういう気質はいかにも設計家にふさわしい特徴をもっていて、西洋の諺に弁護士と作家と建築家の妻にはなるな、とある、そういう几帳面さを、一面にもっていました。
仕事は事務所で、というのが終生の暮しかたでした。事務所では忙しがっているからというわけか、事務所の仕事に直接関係のある用事のかたが、夜や朝早く、日曜の朝など早く来られると、事務所の用事は事務所で伺うことにしていますからと、おことわり申しました。押しかえし、一寸でよかった[#「った」に「ママ」の注記]らと云われても、譲歩しない。やはり何度でも事務所でと答え、後年は、そういう習慣が世間一般にも少なくなったので、早朝のお客様との押し問答が稀れになりました。
夕刻事務所から早く帰った日には、皆でテーブルを囲んで夕飯をたべ、後は談笑したり、音楽をきいたり、興に乗じると、昔ロンドンでアーヴィングが演《や》ったハムレットの真似だと云って、芝居の真似をしたり、賑やかでした。喋っても、癇癪を起しても陽性でした。いつも活気があり、流動があり、些の感傷と常套もあって、父は親密な温い父でした。
私が九つか十位から十年間ばかり、私がまだ父と一緒の家に暮していた間、朝父の出がけの身仕度をするのが私の楽しい任務でした。お洒落ではなかったが、髭は必ず毎朝剃り、カラアは毎朝とりかえ、ホワイト・シャツも一日おき位にとりかえ、そのホワイト・シャツのカフス・ボタンをはめるのが私の役でした。その頃は今のようにソフトをつかわず、西洋洗濯から糊がごわごわについてテラリと艷出しをしたのが運ばれます。そのカフスに、指の跡をつけないよう、ボタン穴のところをくずさないよう、小さい私は目玉に力を入れてボタンをつけかえる。それを着ると父はカラアをつけるのですが、そのカラアも今思うと、よくあのように堅いものを頸のまわりに立てていたとおどろくような堅いのでした。ずっとダブル・カラアをつかい、前をとめるときには、ボタンの頭に、先の尖って柄の長い添えボタンをつかってはめておりました。それからおきまりの七つ道具をわたします。平べったい金時計、その片方の先にナイフがついている、虫眼鏡の度のちがうのがいくつも重って出て来るようになっているもの。紙入、そして一冊の平凡な手帳。ハンカチーフ其他――。
この手帳こそ、父の生涯を通じての動く書斎であり、秘書のようなものであったと思います。誰かと会見する約束が生じる。すると父はすぐ内ポケットから手帳を出して、それを書きこみます。百合子、あさってひる飯に事務所へ来ないかい? ありがとう、行くわ。そのような内輪のメモにもなり仲通りの何処かで何か陶器の気に入ったのが目につくと、その場所、見つけた日づけ、時にはその陶器のスケッチなどもこの手帳にされました。
一日のうちに、父は幾度、手帳を出しかけたことでしょう。実にまめに、何でもかきつけましたが、書いてしまうと安心するのか、それを見ないと、それっきりつい忘れてしまうことなどあり、いつかなど、ああ草臥れた、きょうは早くかえれて儲けものだとよろこび、すっかり平常着にくつろいでしまいました。やがてふと用を思い出したと見え、手帳をおくれともって来させ、頁をくっていたと思うと、やアこれはしまった、今夜はどこそこだった! という次第です。だから、お帰りになる前一遍よく手帳を御覧なさいというのにと云いながら母も手伝って、今度はモウニングか何かに改まって再び出かけたことなどもあります。
父の手帳について一番なつかしく思うのは、自分の仕事を心から好いている者としての父の姿に結びついて思い浮ぶ様々の場面です。夕飯がすんで夜の九時頃、私が自分の勉強も一休みしようと部屋から食堂に出てゆくと、質素な、別に似合うでもないどてら[#「どてら」に傍点]を着た父がテーブルの横のところに坐って帳面をひろげ、鉛筆をもって頻りにプランを描いております。草案をねるという工合のようでした。小さく、いろいろに案配をかいて、いくつも、飽きることなく描いている。母は父の横でしずかに手の先の仕事をするか本を読んでいるのでしたが、母には面白いことにエレヴェーションは分ってもプランは会得出来ませんでした。三十六年建築家の妻であったが、父より三年早く没した迄プランは駄目でした。そこで私をつかまえて、父は自分が描いているプランの一つ一つを説明し、一つよりは他の一つが改良されている点を教え、非常に想像力を刺激するリアリスティックな言葉の描写で、そこが出来上った時の有様を目に見えるように話しました。この戸からすぐ庭へ出ると、庭は芝生で、薔薇の植込みがあり、ここの石の腰架のところでは小噴水が眺められる、夏なんぞ涼しいよ。今度は家の内から出て、まるで庭を歩いているように具象的に話しました。こういう晩は父の機嫌は元より上々です。従って私も父の想像に自分の空想を綯い合わせ、二人で家と人間とを合作して喋ったりしました。二人の話をきいていると、まるで雲の上だね、これは母が傍からの批評です。今日、私の貧弱な常識の中に、ほんの少しばかりでも建築・美術についての内容が加えられているのは殆ど皆、こういう父の手帳を中心にしてこの団欒の遺産です。
晩年になってから、父は夕飯後の食堂で手帳をひろげることが追々少くなりました。仕事に対する父の愛が減ったのではなく、仕事について父の分担が年を経るままに変って来たのでした。そのことを、私は一度も父には直接申しませんでしたが、自分の心の中では或る避けがたい悲しみとして鋭く感じていました。文学と建築という仕事の質の相異というものを強く感じました。事務所が出来た時父は四十一二歳でしたでしょう。それから二十年ばかりの歳月が経つと、娘は益々建築家としての父の業績を愛し、理解しようと欲することが激しくなって来たのですが、父の側では、事務所の内部的組立が経営的に分化し、組織化され、父自身は元のように最初のスケッチから細部のプランまで自身が主としてやらないでよろしいことになった模様です。別の云いかたで表現すると、父は依然として忙しく、活気に充ちているが、その忙しさの内容が変り、手帳の内容から、興味ふかいプランの成長過程の快い眺め、そういう労作の面が縮少されて来たのでした。
六十九年の生涯に、父は何冊の手帳をもったでしょうか、きょう、食堂のヌックに置いて生前父が使っていた書物机の奥をしらべていたらば、一冊のスケッチ帳形の手帳が出て来ました。茶色クローズの表紙で鼠色紙の扉にノート風の細かいペン字で、
(1) 大学図書館ヲ公開スル事
(2) 東洋美術発行ノ事
とあり、別行に、これは鉛筆で「電燈タングステン燈よろし」続けて、「木彫専門」「襖紙一式」等各建築関係専門店の名と所書きが並べられている。これは余程古いものであろうと好奇心に動かされて見てゆくと、方眼紙の第一頁に一九〇七年十月三十一日と英語で日附、「横浜倉庫」という見出しの下に、
[#ここから横書き]
(1) 埋立立坪 二円五十銭
(2) 石工 1.20
(3) 大工 1.00
(4) 人夫 .60
倉庫一坪(地下室及地層)八十二円
[#ここで横書き終わり]
などと記入されています。
続いて、小さい住宅プランを挾んで「日記。(共進会)」一九〇八・二・一〇とあり、文部省へ行って久留課長の紹介で某氏に会い名古屋へ出張して、県庁から共進会建築設計のために、嘱託辞令を受け、「旅費三十六円八十銭東京私宅へ郵送の約」などあるところを見ると、四十歳ばかりの父はまだ当時文部省につとめていたと見えます。
コンクリート建築が日本でもその頃から漸々一般化しはじめていたのでしょうか。 (A) Depth of concrete. (B) Rough and ready rule for finding the depth of concrete. などと、数学の式が図解とともに記されている箇処も見られます。
名古屋の共進会のために参考として一九〇〇年のパリ博覧会か何かのスケッチのほか、記念塔、時計塔、アーチ、パゴーラ、音楽堂等の自分のデッサンもこの帳面の中で少なからず試みられております。そしてこの時の音楽堂草案がサラセン風の加味されたものであることは、私に特別面白く感ぜられます。父は、洋風建築の基本的伝統としては英国風でした。しかしながらその手堅さの一面では南欧風の趣をもこのみ、サラセン式の唐草、華麗な色調がすきで、多分平和博覧会の時でしたか、山の上の建物を扱った時、音楽堂を、サラセン風にデザインしました。父が自分の空想の小さいはけ口としてその音楽堂の素描を私にまで見せたりした、その望みは十何年か前から既に心に潜んでいたものであったのかと、特に当時は父が大してすきでもなかった文部省の小役人であったとしてみれば、一層この実現したかしないか分らないデッサンにしたしみを覚えます。
この父の手帳は、それから相当の頁がブランクで続きます。
何程か経ってから小住宅のプランが三つ四つ出て来て、さて、私共にとって実に見落せない数頁が現れます。明治四十一年二月の日附で「曾禰達蔵氏ト共ニ左記ノ処ニ事務所ヲ開始シ公私ノ依頼ニ応ジ専心建築工事ノ設計監督ニ従事仕候間此段御披露申上候。敬具」云々と初めて八重洲町に事務所をこしらえた前後の様子が相当こまかにのこされているのです。四十一歳になった壮年の父の心の中では、この手帳がブランクであった時期、どのような計画と決心との過程が経験されたことでしょう。
事務所開始のよろこび、用意というようなものが手帳の面に溢れています。新聞へのせるための広告文、発表すべき新聞名、電話加入手続、名刺の草稿、事務所規約の下書、会計上の諸件。この項によって、私たちは子供時代の記憶の中に鮮やかなあの仲通りの赤煉瓦建ての事務所が、「折半出資」僅か千五百円ずつで経営されはじめたことを知り得ます。小切手のこと、支払いのこと、一つ一つが細心に実際的に考えられており、事務所備品として製図用紙五〇、丁定規五つ、から羽箒六つ、時計一つというまことに小規模の新世帯の様がまざまざとうかがわれます。そして、後年事務所が八重洲ビルの三階に移転するまでずっと仲通りの事務所の狭い入口の左手にかかっていた真鍮のサインの図案も、この記念的な帳面の上で、いくつか試みられている中の一つで best と自筆で書いてあるのが、実現されたのであったこともわかりました。
建築家として父の活動がおのずから示した消長には、日露戦争以後における日本の社会経済と文化との波動が実に脈々と反映していることが観察されます。
曾禰先生と御一緒に八重洲町の事務所が開かれたのでしたが、先生と父とではいろいろの点のやりかたが随分違っていたように感じられます。娘としての当時の私の生活にうつった面だけですが、曾禰先生は、事務所へ御家族が見えるということをなさらなかったようです。父は、普通の日でも執務時間が終る頃母や子供を事務所へ立ちよらせ、その時分ハイカラアなところのように思われていた中央亭で家族揃って夕食をたべたりしたことがよくありました。大抵土曜日ででもあったのでしょう。十か十一であった私が母や弟と事務所の通りをずっと来て、石段を三つほどあがり、手前へ引っぱるベルを、力一杯ひっぱると、ベルはいかにもバネのよい音でビーンと鳴ります。やがて黒い上っぱりを着た人が出て来て中からドアをあけてくれる。それが父自身のこともあり、小使のお爺さんのこともあり、ごくたまにはどなたか若い方の時もある。事務
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